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第5話

 俺の脳裏のうりに浮かんだのは、三年前まで過ごした故郷──八咫烏の村でのこと。


 父の獅童しどうは「真の八咫烏」でありながら村の長老。本来のカラスの姿より、人間に変化へんげすることが多かった。どうやら、その姿が気に入っていたらしい。


 ある日、俺はそんな父の肩に飛び乗り、耳元で悩みをこぼした。


「…他の詠唱はできるのに、どうして変化へんげだけできないんだろ」

「ヤトの詠唱はどんな詠唱だったか…今言えるか?」

「うん!えっとね…」


 俺は目を閉じ、静かに、言葉を紡ぐ。


──


八咫やたの影よ 我が身に宿れ

千の翼よ 闇を斬り裂け

我が魂よ 形を成し

天命を超え 姿を現せ


──


「ふむ…」


 詠唱を聞いた途端、父は手を顎に当て、じっくりと考え込んでしまった。それを見て俺はうなだれる。


 やっぱり、この詠唱は変なのだろうか。八咫烏の詠唱は、個々の魂に合った言葉を選ばなくてはならない。言葉と魂が結びつくことで神秘的な力が使える。魂にそぐわない言葉を唱えると、当然術は発動しない。つまり、俺がこの術を失敗し続けているのは、詠唱の「言葉」が魂に合っていないからなのだ。


「この詠唱、格好いいし、俺の魂にも合ってると思うんだけどなあ~」

「きっと、気持ちの問題だね」

「気持ち?」

「ヤトの気持ちが、乗ってないんじゃないかな?」

「詠唱に気持ちが必要なの?魂に合ってるかどうか、じゃないの?」

「それも大事だが、詠唱の力の源である『魂』は『気持ち』そのもの。気持ちの持ち様が大切なんだよ」

「気持ちかあ…。でも、俺ちゃんと心込めて言ってるよ。言葉一つひとつに集中してさ。ちゃんと大事に唱えてるもん」

「ヤト」


 父は小さく俺を呼ぶと、手を伸ばして俺の頭を引き寄せた。そして、父は諭すようにこうささやいた。


「我々も、人間も、必要な時に必要な人や言葉に出会うものだ。我々はそういう言葉を詠唱に使うべきなんだよ。そうすることで力が発揮できる。発動しないということは、きっとまだ出会ってないだけ。焦らなくても大丈夫」

「でも…」

「八咫烏は進むべき者を導く存在──。そんな我々も、また導かれている。その時が来れば、八咫烏の魂がきっとお前のことを導いてくれる」


----------


 俺は敵を鋭く見据える。息を吸うたび、敵はじりじりと焔に迫っていた。残された時間は、ほんの数秒。俺はグッと目に力を込めた後、静かに閉じた。神経を集中させて、心を澄ます。


 次の瞬間、まぶたの裏に焔の姿が浮かんだ。

 闇に映える美しい銀髪。強さの象徴ともいえる黒き影をまとい、果敢かかんに敵に立ち向かうその背中は、憧れそのものだ。


 けれどもう、憧れているだけじゃいけない。俺も、あんな風に大切な人を守れる、焔のような強さを持った八咫烏に──。


 そう思った時、俺の口から自然と言葉が導かれるようにこぼれ落ちた。

 魂が、心が、俺の未来をまっすぐに照らし出し、詠唱となる。


──


八咫やたの影よ 我が身に宿れ

千の翼よ 闇を斬り裂け

焔の如き 黒き影

天命を超え 姿を現せ


──


 すると、竜巻のような轟音ごうおんが周囲に響き、土埃つちぼこりが舞った。異様な気配に驚いたのか、敵が足を止める。敵が振り返ったその視線の先——俺は遥か上空から、敵を見下ろしていた。驚きが敵の顔に滲む。自我なき存在であっても、この状況は想定外だったらしい。


 それもそうだ。俺は今、カラスの姿ではない。五本の指と足を持ち、漆黒しっこくの翼を背負った人間──少年へと姿を変えていたのだ。


 次の瞬間、バサッと音を立てて、翼が大きく開く。舞い落ちる雨粒が羽先で弾けたのと同時に、全身を赤いもやが包み込んだ。俺は拳を握り締め、そのまま溢れ出る力を解き放つように手を突き出した。


 すると、黒い翼から鋭利な羽が射出され、敵に襲い掛かる。俺の猛攻に敵は怯んだのか、血を流したまま素早く影の中へ姿を消した。


 俺は敵がいるであろう闇に向かい、牽制けんせいの羽の刃を次々と放つ。そして、バサッと翼をひと際大きく広げ、地上にいた焔を腕の中に抱き寄せ、素早く舞い上がった。


「焔…焔…!」


 俺は少年の姿のまま焔に呼びかける。だが、反応はない。気付けば、雨脚あまあしはさらに強くなっていた。強風が吹き荒れ、視界はさらに悪い。まるで、空が怒っているみたいだ。一旦降りようかと考えた時、ふちに目の前に小さな洞窟が現れた。俺はすかさず、その中へ滑り込む。


 強風のせいか、洞窟の地面は冷たく湿っていた。俺は迷わず自らの羽を手でむしり取って床に敷き、焔をそっと寝かせる。その時、彼の顔が僅かに歪んだ。きっと傷が痛んだのだろう。


「ごめん。もうちょっとだから…」


 そう言って、俺は焔の手を握った。とても冷たい。雨に打たれたせいだ。

俺は涙を堪えながら、両翼を広げて焔の体を覆った。その瞬間、赤いもやのような光が全身から静かに放たれる。僅かな光だが、これなら冷たい雨と風から焔を守ることができる。


 大丈夫、あと少し。

 きっともうすぐ、助けが来る。


 どれくらい時間が経ったのだろう。静かに放ち続けていた光の中、ほと、焔の頬に俺の血が一滴落ちた。


 そうだ。俺も怪我をしていたんだっけ。すっかり忘れていた。気付いた瞬間、俺は力が抜け、ガクッと膝をついて小さくうなだれた。


 小さな光が徐々に消えていく。少年の姿ももう長くは保てないだろう。俺は翼をそっとたたみ、代わりに両手で焔の体を包むようにさすった。少しでも熱を失わないように。


 もう少し。もう少しだから──。


 その時、また一滴、俺の血が焔の頬に落ちた。俺は慌ててその頬に触れ、指先でそっと血を拭う。すると、焔のまぶたがゆっくりと持ち上がった。静かな光を宿した瞳が、俺を見つめ返す。


「ほ…っ!」


 思わず安堵の声が漏れた。だが、焔は目を見開き、戸惑いの表情を浮かべてゆっくりと首を傾げた。


「…君は…?」


 俺は思わず、自分の手足を見下ろした。

 そして、少年の姿になった自分を、改めて確認する。


 …そうだ。

 焔はこの姿の俺を知らない。敵だと思っただろうか。それとも、誰か別の人間だと…。


 何て言えばいいんだ。

 俺は伝えるべき言葉が浮かばず、顔を伏せた。


 すると、そっと頭に温かい、馴染みのある感触が降りてきた。焔の手だ。驚いて顔を見上げると、彼はすべてを理解しているかのように、柔らかく微笑んだ。


「……ヤト」


 そのひと言で、俺の張りつめた気持ちが一瞬で溶けた。俺は目にいっぱい涙を浮かべて、焔の胸に飛び込んだ。


 ぎゅっと抱きしめたその瞬間、「ポンッ」という軽やかな音と共に、変化へんげは解け、俺は元の小さなカラスの姿へと戻っていた。焔は怪我をしていない方の手で、そっと俺を撫でる。


「…君が助けてくれたのか。悪かったな。面倒をかけて」


 俺は焔の胸元に頭を埋めながら、めいっぱい首を振った。

 人間に変化へんげできたことより、焔を助けられたことが、目を覚ましてくれたことの方がずっと嬉しかった。


 俺はパッと頭を上げて、焔の肩に目を向ける。


「怪我は……!?」


 焔は少し俺を離して、ふっと口元を緩めた。


「こういう時、つくづく人狼族で良かったと思う。並外れた治癒力があるからな。見てみろ」


 そう言いながら、焔は怪我をした右肩を俺に見せた。完全とはいえないが、傷はうっすらと塞がり、血は止まっていた。


「致命傷じゃない。大丈夫だ」


 焔の声を聞いた瞬間、胸を締め付けていた不安がふっとほどける。ほっとしたせいか、俺の体はふにゃりと力を失い、そのまま焔の腕の中へすっぽりと収まった。


「心配したあぁぁ~」


 思わず漏れた声は、泣き笑いに近かったかもしれない。焔はクスッと笑うと、俺を抱えたまま立ち上がる。そして、優しく俺の羽をポンポンと叩いた。


「外を見ろ、ヤト」


 促されるまま、俺は洞窟の外を見る。さっきまで怒っていた空は静まり、大雨は小雨になっていた。そして、夜空には大きな三日月。その光の下、数人の人影がこちらに向かっているのが見えた。あれは──。


「ようやく応援が来た。これで帰れる。ヤトのおかげで、無事に任務完了だ」


 どこか誇らしげな焔の声が、俺にはとてつもなく嬉しかった。


 この夜は、忘れられない特別な出来事。


 ──焔の如き、黒き影


 焔のように強く在りたい。もっと強くなって、大切な人を守る。

 この詠唱は、そんな俺の決意そのもの。

 俺は──。


----------


「──ト!ヤト!」


 パチ。


「な……凪?焔?」

「ヤト!!」


 私はぎゅっとヤトを抱きしめた。やっと目を覚ました。さっき水遊びをしている最中に溺れて、気を失っていたのだ。時間にして十分ほどだろうか。


「苦しくない?さっき、お水いっぱい吐いたんだよ。びっくりしちゃった」

「えええ!?う…うん、全然大丈夫」


 ヤトは少し照れくさそうに笑う。その様子に、私はほっと胸を撫で下ろした。隣にいた焔もそっとヤトの頭に手を添えて、心配そうな眼差しを向ける。


「本当に大丈夫か?…うなされてたぞ」

「え!?ほんと!?」

「怖い夢でも見てたの?ヤト?」


 ヤトは一瞬、ぽかんと空を仰いだかと思うと、私の手をするりと離れ、バサッと羽ばたいて空へ舞い上がった。


「ううん!すっごくいい夢だよ!一生忘れない、大切な日の夢!」


 そう言いながら、ヤトは「ぴやああぁぁぁ」と元気いっぱいに旋回し、くるりと舞って勢いよく焔の胸元に飛び込んだ。そして、心地よさそうに彼に身を委ねる。


「ヤト?どうした?」

「ううん。なんでもない」


 ヤトは目を閉じ、まるで確かめるように焔の胸に顔を埋めた。焔は一瞬きょとんとした顔で私を見て、軽く首を傾げる。そして彼は、静かにヤトに腕を回し、優しく羽を撫でながら抱きしめ返したのだった。


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