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第1話

 昼下がり。今日もジリジリと焼けつくような日差しが頭のてっぺんから降り注ぐ。そんな中、私は片手にホースを構え、勢いよく水を噴き出してヤトに浴びせていた。


 ここ最近、すっかり習慣になったヤトとの水遊び。ヤトはこの時間が大好きで、今も楽しげに羽をバシャバシャとさせている。


「ぴやあああぁぁぁ~~!楽しい~~~!」


 無邪気な声が庭に響くと、私もつられて笑みがこぼれる。

 ヤトは今、子どもが二人ほど入れる小さなビニールプールの中にいる。初めはただホースで水をかけるだけだったのだが「プールに浸からせてやった方がヤトが喜ぶだろう」と、焔が仕事帰りに買ってきてくれたのだ。


 このプール、想像以上にヤトは気に入った様子で、今日も大はしゃぎ。

 すると、突風が洗濯物をさらっていく音がした。目をやると、物干し竿にかけていた洗濯物が地面に落ちている。


「あっ…!」


 私は小さく声を漏らし、あわてて駆け寄る。焔のシャツに私のパジャマ…。パタパタと音を立てて風に揺れる服を拾い集め、物干し竿にしっかりとかけ直し、ついた土埃を叩いて落とす。

 そしてプールへと視線を戻した、その時──。


 ……あれ?


 水しぶきが飛んでいない。さっきまで、あんなに飛び跳ねていたはずなのに。私は胸がざわついた。水面が妙に静かすぎる。私は、小走りでプールへと向かう。


「ヤト?」


 次の瞬間、私は青ざめた。

 プールの中でヤトがもがいていたのだ。水中でばたつく姿を見て、少し前に焔から何気なく告げられた言葉が頭をよぎった。


 ──ヤトは、たまに足がるんだ。


 私のバカ!どうして目を離したりなんか…!


「ヤト!」


 私は叫びながら、素早くプールへと手を伸ばす。すると──。


 「バシッ」という乾いた音と共に水面が閃光に包まれた。次の瞬間、激しい水圧が体を打ち、思わず目を閉じる。


 再び目を開けたその時、目の前にいたのは人間の姿に変わったヤトだった。ぐったりと濡れた地面に横たわっている。どうやら本能的に変化へんげして危機を逃れたようだ。


「ヤト!!」


 私はすぐさま駆け寄り、その体を抱きかかえるようにさする。


「ヤト!聞こえる!?ヤト!!」


 私の呼びかけに、微かにヤトのまぶたが震える。でも、反応はそれきり。ヤトは静かに気を失った。


「凪、どうした?」


 その低く静かな声に、私は反射的に振り返った。焔だ。

 彼は人の姿となったヤトと涙ぐむ私の姿、そして水がすっかり抜けたプールを見て、状況を一瞬で把握したようだった。


「溺れたのか?」

「はい!足がったみたいで…」


 言葉を絞り出す私の隣で、焔はすぐにヤトの肩を支え、呼吸の確認をする。


 するとその時、ヤトの体が淡く赤い光を静かに放ち始めた。

 突然の光景に私は息を呑む。光に包まれながら、ヤトの体はゆっくりと小さなカラスの姿へと戻っていった。


 その姿を見て、私の頭に再び嫌な予感がよぎる。

 私は首を小さく振りながら震える手をヤトに伸ばす。すると…。


「大丈夫だ」


 焔の手がそっと私の頭に触れた。濡れた髪を、指先でゆっくりと撫でる。その仕草は、私を安心させるかのような優しさが滲んでいた。


「気を失っているだけだ。体を拭いてあげよう」


 私は小さく頷き、近くに置いていたバスタオルを手に取って、そっとヤトの体を包んだ。濡れている小さな羽毛を拭いながら、ヤトの体に耳を当てる。


 ──とくん、とくん。


 確かに聞こえる温かな鼓動。

 胸の奥がじんわりとほどけていく。私はゆっくりと息を吐き、慎重に、優しくヤトの体を拭き続けた。


 すると、ヤトがふにゃりと心地よさそうに体を預けてきた。その無防備な姿に私と焔は思わず顔を見合わせて笑う。


「現金なヤツだ。私が拭くといつも逃げるのに」


 焔の呟きに、私は涙ぐみながら「へへっ」と声を出して笑った。

 その時、かすかにヤトが何かを呟いた気がした。私は再び彼に耳を近づける。


「……ん?」


 その様子を見て、焔が小さく首を傾げた。


「どうした?」

「今、ヤトが何か言った気がして」


 私がヤトの嘴に耳を寄せると、焔も隣に屈んだ。すると…。


「……焔あぁぁぁ……」


 聞こえた。


 思わず、笑みがこぼれる私たち。


「夢見てるみたいですね。どんな夢だろ」

「私にブロッコリーを食べさせられている夢かもしれない。可哀想に」


 焔の苦笑に私は肩を震わせて笑った。さっきの出来事が嘘のように、優しい空気が流れていく。


 その時、不意に一陣の風が吹き抜けた。

 顔を上げると、そこには一枚の新緑の葉。そのままひらりと舞い上がり、雲ひとつない空へ静かに溶けていった。


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 肌寒い夜。風は容赦なく吹きつけ、湿った空気が肌にまとわりつく。

 ついさっきまで、この一帯は大雨だった。今は止んだものの、俺たちの体は濡れたまま。風が吹くたび体温がじわりと奪われていく。


 その時だった。


 ボテッと、何かが頭に落ちてきた。枯れ葉だ。雨を吸っているのか、思ったよりも重い。俺はゆっくりと目を開けた。


 ──包まれている。


 大きな何かに、俺の体はすっぽりと包まれていた。いや、誰かの腕だ。顔を上げると雨に濡れた銀髪が目に入った。


 焔だ。


 濡れた髪が額に貼りつき、目は鋭く周囲を見渡している。警戒を解いていない。だが、俺の視線に気づいたのか、一瞬だけ焔の目がこちらを向く。

 目が合った瞬間、険しい瞳がふわりと緩んだ。すかさず、彼の右手が俺の頭に触れる。


「…起きたか?」


 低く落ち着いた声に、俺は少し首を傾けた。


「俺、気を失ってた?」

「ああ。少しな」

「…敵は?」

「恐らく、まだ近くにいる。だが、三十分ほど前から気配が完全に途絶えた」


 焔はそう言いながら、視線を再び闇の中に投げる。俺も羽をバタつかせて身を起こそうとしたが、焔の腕がそれを制した。


「俺、様子を見てくるよ」


 すると、焔は小さく笑い、濡れた手で俺の頭をもう一度撫でる。


「ヤト。その怪我では無理だ。大人しくしてろ」

「でもさ……」

「静かに」


 言葉と同時に、俺を抱きしめる腕の力が強くなる。背後を睨む彼の視線は鋼のように鋭い。まるで気配だけで敵を裂こうとするかの如く。


 焔の心の動きに呼応するように、風が渦巻き、木々が不気味にざわめき始める。


 次の瞬間、焔は一気に「陰の気」を放出した。


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