午後二十二時前。
私と焔は財前とともに、紅牙組の屋敷に向かって歩いていた。
あの後、小西は応援に来たSPTの隊員によって連行され、めでたくお縄となった。
店を後にする前、財前に少し話を聞いたところ、私がSPTだと小西に明かしたのは夏樹と店、そして私を守るためだったらしい。
「あのままじゃ、夏樹も店も白蛇会に目をつけられちまうからな」と財前は言っていた。確かに、あの場の混乱が収まらなかったら、もっとややこしい展開になっていただろう。私も怪我をしていただろうし…。
「ありがとな、凪。今日は色々助かったぜ」
「こっちこそ、危ないところを助けて貰っちゃって…」
そう言ってヘラヘラと笑う私。
いや。笑ってばかりもいられない。胸の奥に引っかかっていることが一つあるのだ。私は焔に聞こえないよう、小声で財前に尋ねる。
「それで…この浴衣のお金なんですけど…」
すると、財前が突然足を止めた。
「……?」
私が訝しむ間に、財前の目がじっと前方を捉える。すると、彼の表情がみるみる強張り、険しくなっていった。
「財前さん?」
「どうした?」
同時に尋ねる私と焔。財前の視線の先を追うと、空から何やら黒い物体が、こちらに向かって猛烈な勢いで突進してくる。いや、あれは――。
「ヤト!!??」
空から突進してきたのはヤトだった。だが、様子がいつもと違う。ヤトの体は赤い靄で覆われていた。つまり、八咫烏の力を全開にしていたのだ。
「ざいぜん~見つけたぁ~~ざいぜんんんん…」
ヤトの叫びが夜の闇夜に響き渡る。傍から見るとちょっとホラーだ。
そういえば、さっき焔と財前が電話をした時、電話の奥でヤトがブチ切れていたのが聞こえたっけ。今まさに財前を見つけて、怒りが頂点に達したのだろう。
「こいつは…やべえ!!」
そう言うなり、財前はサッと紅牙組の屋敷の塀に手をかけ、一瞬でよじ登った。ヤトは赤い靄を纏ったまま、さらに速度を上げて財前を追いかける。
「待てええぇえぇぇ…!!」
ヤトの声に呆然としながらも、声が聞こえなくなったタイミングで、私はおもむろに焔に尋ねる。
「ヤ…ヤト…あんなに財前さんに怒るなんて…」
「…いや、財前だけじゃない。私にも怒っている」
「え!?」
「留守番が相当嫌だったらしい。とはいえ、店にヤトを連れていくわけにもいかないからな。私が屋敷を出る時も大騒ぎして大変だった。ヤトが次に狙うのは、間違いなく私だ。財前が狙われているこの隙に、さっさと部屋に戻ってドライフルーツを用意しなければ」
少し事務的な言い回しに思わず吹き出す私。ドライフルーツはヤトの好物なのだ。それを食べれば、きっと(少しは)機嫌を直してくれるはず。
ヤトにも心配かけちゃったな。
早く会ってナデナデしたい。
そう思うと気持ちが少し軽くなって、自然と小走りになる。だが――。
「あいた!」
ズキっとつま先に痛みが走り、反射的に声を上げた。しかも、よりにもよって、いつになくドスの利いた声で。思わず顔をしかめる私に、前を歩いていた焔が振り返る。
「どうした?」
「いや、その…ちょっとつまづいただけです!」
慌てて答えながら足元を見ると、指が赤く擦り切れていた。下駄を履き慣れていないせいだろう。なんとか痛みを堪えて歩こうとしたところ、焔が突然私の前に立ち、スッとしゃがみ込んだ。
「え…!?」
戸惑う私をよそに、焔は迷うことなく私の体を抱き上げる。
こ、これは…!お姫様抱っこ…!?
「ほ、焔さん!?」
「掴まってろ。部屋に戻ったら消毒だ」
「…はい」
私は力なく返事をした。さっきまで歩いていた視界が一変し、見上げれば月明かりに照らされた焔の横顔が目に入る。銀髪がさらりと揺れて、彼の鋭い眼光はじっと前を見据えている。その姿がとても綺麗で、私は思わずドキリとする。
だけど…。
彼の表情は冷静そのもの。まるで何事もないかのように。それが少しだけ寂しかった。
そういえば、焔さんにはこれまで二回、お姫様抱っこされたっけなあ。
一回目は対の世界に来た初日、塚田に襲われた時。
二回目は紅牙組でまたまた塚田に襲われた時。
私はこんなにドキドキしてるのに、焔さんにとってみたら、なんてことないのかな…。
そういえば、さっき財前さんが…。
―可愛いって言われるのをただ待つんじゃねえ。言わせるんだよ。焔にな。
それに、夏樹さんにもこう言われたっけ。
―もしこの人と一緒にいたいって思うなら、勇気を出さないとダメだよ。
私は静かに息を整える。気付けば、周辺には焔の足音だけが響いていた。夜の静寂が私たちを包み込む中、ふと焔の顔を見上げる。
「あの…焔さん?」
焔が私を見る。抱きかかえられているせいか、いつもよりわずかに顔が近い。
「私、今日生まれて初めて、浴衣着させて貰ったんです。そ、それで…あの…」
私はドキドキする気持ちをグッと押さえて、勇気を振り絞った。
「………可愛い…ですか?」
その瞬間、焔の目が僅かに見開かれた。彼は数秒間じっと私を見つめた後、少しだけ目を逸らす。その途端、急に恥ずかしさと後悔が押しよせ、慌てて言い訳を並べ始めた。
「じょ…冗談です…な、何言ってるんだろう私なんでこんなこと聞いちゃったんだろ私別に深い意味はないんですけどなんとなくちょっと聞いてみたっていうかなんていうか変なこと言ってますね私…あはは…」
息を吸う間もなく早口でまくしたて、思わず目を伏せる。恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じたその時――。
「……ああ」
……え!!??
思わぬ言葉に私は体をビクつかせ、焔を見上げた。私を見つめる彼の瞳は、とても柔らかくて、暖かかった。そして、口元にほんの僅か、笑みが浮かんでいる。
「どこの織姫かと」
――ボゥッ!!🔥🔥
頭の中で、まるで火柱が経ったような音が響いた。いや、実際に顔が燃え上がったのではないかと思うほど、ものすごい勢いで火照るのを感じる。
おり…ひ…め…!?
私は呼吸をするのも忘れ、呆然と焔を見つめた。彼はそれ以上何も言わず、静かにこちらを見つめている。
どうしよう、嬉しくて嬉しくて、目頭が熱くなる。それに、心臓がバクバクし過ぎて、体がだんだんふわふわしてきた。そして――。
「わっ…!」
ドキドキしたせいか、軽い貧血を起こした私は、抱きかかえられた体がふらりと力を失い、思わず焔の腕からずり落ちそうになる。焔はそんな私をグイっと抱き直し、腕に力を込めた。
「ご、ごめんなさい」
私は顔を伏せ、そっと焔の制服の胸あたりを掴む。それを感じ取ったのか、焔が少しだけ視線を落としたが、何も言わず、再び歩き出す。
その足取りは、さっきよりも心なしかゆっくり感じられた。
静かな夜道に響く足音。
月明かりの下で、心地よい夜の風が、私たちを包み込んでいった。