結局、私は最後に試着した赤い浴衣に決めた。鮮やかな赤地に華やかな柄が映える一着だ。帯はシンプルな白を選んだ。全体のバランスも悪くない気がする。
お会計はなんと財前持ち。突然の展開に正直戸惑っていたのだが、浴衣まで買ってくれるなんて。次第にじわじわと申し訳ないという気持ちが湧いてくる。
私は慣れない下駄を履きながら、財前の後ろをテクテクとついていく。ここは昭和の雰囲気が漂う商店街。活気に満ちた通りには、赤い提灯がかかった居酒屋もちらほら。中からは賑やかな声が聞こえてくる。
「財前さん。ありがとうございます。この浴衣…」
「細けえこと気にすんな。ここからが本番だ」
財前はふいに路地裏へと足を踏み入れた。そこは表通りと比べると街灯の数が少なく、一層暗く見える。薄暗い路地には年季の入ったビルがいくつか立ち並んでいる。それぞれの階に掲げられた看板がチカチカと明滅し、独特の空気を醸し出していた。
すると、財前はある古びたビルの中へと足を踏み入れた。
「用があるのは、ここの三階だ」
そう言うと、財前はビルの小さなエレベーターに乗り込む。エレベーターはガタガタと頼りない音を立てながら、ゆっくりと三階へ。扉が開くと、目の前に入ったのは赤い看板。「スナック エリーゼ」と書かれている。
「あらぁ!財前さん!いらっしゃい!」
エレベーターの扉が開くと同時に、目の前に現れたのは、ド派手な赤いドレスを着た年配の女性だった。ドレスに施された派手な装飾が煌びやかな店のライトを浴び、彼女の存在を一層際立たせている。
女性は財前を見るなり腕に手を絡ませて、グイっと彼を引っ張った。
「もおお~!最近全然顔を見せてくれなくて、寂しかったんだからあ!」
「悪い悪い、ちょっと忙しくてよ」
上機嫌に財前が笑う。一方、私は一気に顔が引きつる。ここって、私が来るようなお店じゃないような…。場違い感が半端ない。
周囲を見渡すと、煌びやかな内装と豪華なシャンデリア。どのテーブルにも派手なドレスや着物を着た女性に、スーツ姿の客が座り、楽しそうに笑い声を上げている。
「今日店に行くって夏樹に連絡してたんだけどよ、いるか?」
「いるよ!なつきー!!」
女性の声が店内に響く。その声が聞こえたのか、店の奥から青いドレスを着た綺麗な女性が顔を覗かせた。女性は財前を見るなりパッと華やかな笑みを浮かべ、軽く巻かれたロングヘアを揺らしながら駆け寄ってくる。その動きはまるで風のように優雅で、自然と目を奪われてしまうほどだ。
「財前さん!会いたかった!もう~大好き!」
彼女はそう言いながら財前の腕に絡みつく。その甘えた姿すらどこか品があり、自然に見えるのだから不思議だ。
「おう!元気だったか?夏樹」
財前は夏樹と呼ばれた女性の頭をそっと撫でる。夏樹はにっこりと笑いながら頷いた。
なんて綺麗な人なんだろう…。
同性だけど、思わずうっとりしてしまう私。
すると、私の視線に気付いたのか、夏樹がこちらを見る。バチッと目が合う私たち。
「…その子は?財前さんの彼女?」
「いや、うちで預かってるガキだ」
サラっと答える財前。私は恐る恐るペコリと頭を下げた。すると、夏樹は少し眉をひそめて、ゆっくりと私に近づいてきた。もしかして、何か誤解してるんじゃ…。そう思った私は慌てて口を開く。
「あ、あの!私、財前さんにただ着いて来ただけで…」
すると、夏樹は私の言葉を遮るように、そっと手を伸ばした。
「え…?」
驚く私の浴衣の帯を、夏樹は丁寧に引き上げる。どうやら、帯が型崩れしていたようだ。夏樹の指の動きは優雅で、まるで魔法のように帯が整っていく。
「これでよしっ!」
そう言うと、夏樹は一歩下がり、にっこりと微笑んだ。その笑顔はとても眩しくて、屈託のない純粋さが溢れている。
「ほら!さっきよりずっと可愛い!ね?」
夏樹の真っすぐな言葉に、私はついポカンとしてしまう。
可愛い…!それに、とってもいい人だ…。
私はぎこちなく笑顔を返して、軽く会釈をする。
「…ねえ、財前さん?もしかしてこの子が…?」
「おう」
財前が軽く頷き、口元ににやりと笑みを浮かべる。その表情に一抹の不安を覚えながら、私は財前と夏樹を交互に見た。
一体、何の話だろ?
不思議に思いながらも尋ねるタイミングを逃してしまう私。すると、夏樹が一歩私に近づき、こう声をかける。
「ねえ。あなた、名前は?」
「えっと…凪です」
「凪ちゃん?可愛い~!」
そう言うや否や、夏樹は私をぎゅっと抱きしめてきた。その瞬間、甘い花の香りがふんわりと私を包み込む。
い、いい匂い…。
「おいおい、夏樹。はっちゃけ過ぎだ」
「だってぇ~。凪ちゃん、可愛いんだもん」
夏樹は私から体を離し、一転真剣な瞳でこう言った。
「今日はよろしくね!なっちゃん」
な…なっちゃん?
「じゃあ財前さん!打ち合わせ通り、後で合図するから!」
「おう!」
…合図…?
財前の即答とともに、夏樹はその場から颯爽と走り去っていった。夏樹が身に纏っていた花のような香水の香りが周囲に立ち込める中、私は訳もわからず呆然としていた。