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第1話

 ある日の夕方。

 生ぬるい風が吹き込む紅牙組の廊下の片隅で、私はゴロンと寝ころびながら空っぽのお腹を押さえていた。


「お腹空いたなあ~」


 空はまだうっすら茜色。そろそろ晩御飯の時間だ。風に乗って届くのは、肉じゃがの甘い香り。それにお味噌の香り。今日の具材はなんだろう。想像するだけで、またお腹がぐうっと鳴る。


「ああ~早く食べたいなあ…」


 そう呟いてあくびをする。すると、だらしなく伸びた私の頭上に、突然大きな影が覆い被さる。


「うわ!」


 驚いて思わず声を上げる私。影の正体は紅牙組の若頭、財前だった。


「凪、暇か?」

「いえ、暇じゃないです!」


 そうキッパリ即答する私。


 財前さんがこんなこと聞くなんて、絶対ロクなことなさそう…。


 その場から逃げようと起き上がろうとした次の瞬間、財前の手がサッと伸び、私の首根っこを掴む。


「ちょ、ちょっと何するんですか!?」

「暇なら付き合え」

「い、いや、暇じゃないです!これから晩御飯だし、その後ヤトとオセロやろうって約束してるし」


 必死に抗議する私を、財前はじろりと見下ろした。


「カラスの小僧と俺様、どっちが大事なんだ?あ?」

「ヤトです」


 これまた即答する私に、財前は一瞬眉を顰め、さらにグイっと私を引っ張る。思わず「ひいっ」と小さい悲鳴が漏れる。だが、財前は気にする素振りも見せず、不敵な笑みを浮かべながら私を引きずっていく。


「いいから、いいから。さ、出かけるぞ」

「出かける?出かけるって、一体どこへ?」

「今日は俺が色々教えてやるってことよ」

「い、色々?」


 財前は悪戯っぽく笑い、目を輝かせながらこう言い放った。


「大人の遊びを、な」


----------


 夜六時。

 財前から連れて来られたのはなんと着物屋さんだった。


「じゃあ頼んだぜ」


 財前は店員にそう伝えると、私を試着室へ無理矢理押し込む。そして、次々と渡される色とりどりの浴衣を試着することに。状況に困惑しながらも、店員のお姉さんは手際よく私に様々な浴衣をパッパッと着せていく。その動きはまさにプロだ。


 一体なぜこんな展開になっているのかというと、私がSPTの制服姿のままだと気付いた財前が、「俺は和服なのにお前の格好が堅苦しい」と言い出し、無理矢理ここに連れてきたのだ。


 そうして五着の浴衣を着たところで、店員のお姉さんがこう尋ねてきた。


「どう?好きな色とか、好きな柄の浴衣あった?」

「えっと…これで大丈夫です」


 もう五着も着させてもらったし、これ以上お姉さんの手を煩わせては申し訳ない、そう思って答えたのだが、お姉さんは私を見ながら小さく唸った。どうやら私の表情を見て、気に入っているとは思わなかったらしい。


「うーん。本当に?たくさん着ると迷っちゃうよね。財前さんに聞いてみる?」


 そう言うなり、お姉さんは試着室のカーテンをガラッと開ける。そこには和服姿の財前が腕を組みながら立っていた。


「おお、いいじゃねえの。馬子にも衣裳って感じで」


 その言葉に、一瞬だけ頬が熱くなるが、言葉の意味をすぐに理解して、私は頬を膨らませた。


「…それ、褒めてないですよね」


 思わず呆れて突っ込む私。財前の言葉にちょこっとだけ傷付きながらも、鏡越しに自分の姿を見て、小さくため息をつく。すると、財前が不思議そうに首を傾げた。


「どうした?浴衣は好きじゃねえのか?」

「そういう訳じゃ…。ただ、着るのが初めてでなんだか落ち着かないっていうか…」

「浴衣を着たことがねえだとォ~そんな奴いんのかよ!しょうがねえな。好きな色とか柄で決めろ」


 そうは言われても、選ぶのが難しい…。


 こういう場に慣れていないせいか、何を選べばいいかわからないし、なんだか気後れしてしまう。

 すると、お姉さんがにっこり微笑みながらこう言った。


「財前さん、選んであげなさいよ!彼女なんでしょ?」


 え!?


 私は慌てて首を横に振る。どうやら、このお姉さんは私と財前の関係を勘違いしているらしい。


「ち、違います!全然違いますから!」


 全力で否定する私を見て、財前はケタケタと笑う。


「ははっ!こいつはなァ、別の堅物にほの字なのよ!な、凪?」

「は……ええぇ!?」


 思わぬ爆弾発言に、私は顔を真っ赤にして慌てふためく。すると、試着室の椅子に置いておいたSPTの制服からブーブーと振動音が響いた。この感じはスマホだ。私は制服のポケットからスマホを取り出し、画面を見る。そこには案の定「焔さん」と表示されていた。


 や、やばい!


 紅牙組の屋敷にいたはずの私が突然いなくなったことに気付いて、心配したのだろう。慌てて電話に出ようとした次の瞬間、財前がサッと私からスマホを奪う。彼は軽く咳払いをすると耳に当て、意気揚々と話し出した。


「はいよ~もしもし~おっ焔か。ああ?凪か?今一緒にいるぜ~。これからちょっと野暮用があってよ。一晩借りるぜ」


 言い終わるなり、財前は顔をしかめ、スマホを耳から遠ざけた。電話の向こうから「ガアアァァァ」という、まるで猛獣のような雄叫びが聞こえてくる。この声はヤトだ。どうやら、財前が私を勝手に連れ出したことにブチ切れているらしい。


「おいおいおい、勘違いすんじゃねえ。別にスケベ心で連れ出したんじゃねえよ。マジで野暮用なんだって。ちゃんと今日中に帰るからよ。心配すんな…ああ?ああ…へいへーい」


 財前はため息交じりにスマホを切り、うんざりした顔で私にスマホを手渡す。


「どうしました?」

「門限は二十二時だと。それを過ぎたら、俺にとんでもねえことが起こるらしい。まったくとんだ堅物だぜ、焔の野郎…」


 そう言いながら、財前はふと何かを思いついたように顔を上げる。


「おっ。そうだ。浴衣よォ、着たまま帰るってのはどうだ?」

「え?」


 戸惑う私に、財前はにやりと笑った。


「せっかく初めて浴衣着たんだからよ、焔とカラスの小僧にも見せてやれ。案外、褒めてくれるかもしれねえぞ」


 おどけたような笑みを浮かべながら、財前はそう言った。私は少し戸惑いながら、軽く視線を伏せる。


 焔さんが、褒めてくれる…?


 そんなことを想像して、胸がちょっとだけ熱くなる。


「あ?どうした?」


 財前が不思議そうに眉を上げる。私は少し言い淀みながら、再び鏡に映る浴衣姿の自分を見た。今着ているのは青い浴衣。アジサイの花柄が涼しげで落ち着いた雰囲気を感じる一着だ。でも、どこかしっくりこない…。

 この浴衣より、さっき着た赤い浴衣の方が、自分らしい気がする。華やかで、可愛くて…。それに赤は私が好きな色なのだ。


「あの、もう一回この赤い浴衣、着てみても…いいですか?」


 恐る恐る尋ねると、財前は少し驚いたような顔をした後、すぐにニカっと笑った。


「そうそう、せっかく見せるなら、お前が気に入った浴衣じゃねえとなあ」


 その言葉に、私は少し照れながら頷いて、再び試着室のカーテンを閉めた。


 あの冷静で真面目な焔さんが、私を褒めてくれるなんて、あるのかな。

 そんなこと言われるなんて想像もできないけど…。

 それでもせっかく見せるなら少しは可愛い自分でいたい。


 そう思いながら、私は赤い浴衣を見つめる。心に浮かんだのは焔の顔。完全に浮かれていた私には気付きようがなかった。浴衣選びのこの瞬間から、財前が仕掛けた「とんでもない出来事」が始まっていたことを。


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