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第3話

「やあやあ、楽しみだね、これは」


 いつの間にか、風間組長が花丸の隣に腰を下ろし、楽しげに笑いながら手を叩く。


「あの…止めなくていいんですか?二人を?」


 花丸が控えめに尋ねるが、風間はまるで芝居がかったように胸を張り、重々しく返す。


「なぜ止める?男の喧嘩だ。始まってしまった以上、最後まで見届けなければ」


 そのセリフは威厳を装ってはいたものの、風間の口元は完全に緩んでいる。どうやら、この状況をただ単に見てみたいようだ。


 そういえば…。


 ふと紅牙組の玄関に飾られていた大きな掛け軸を思い出した。

 確か、あれにはこう書かれていた。


 ――喧嘩上等。


 そう、紅牙組は喧嘩に美学を持つ極道。その精神は、こんな場面でも存分に発揮されるらしい。組の面々が目を輝かせて見守る中、私は焔の様子をそっと伺う。


 大丈夫かなあ、焔さん…。

 そんな私に、ヤトが耳元で囁くように言った。


「大丈夫だよ、凪!焔強いもん!」


 元気いっぱいのヤトの声を聞いて、私は思わず吹き出してしまった。

 今回の任務で何度も聞いたヤトのこの言葉。だけど、今始まろうとしているのは、拳と拳の喧嘩じゃない。酔っ払い同士の飲み比べなのだ。

 すると、紅牙組の若い男が二人にジョッキを手渡し、酒を注ぐ。シュワシュワと細かな泡が立つ、ビールだ。黄金色の液体が眩しく揺れているのが遠目からでもわかる。


「最初はビールだね。まあこれくらいは序の口。二人とも余裕だろう」


 ジョッキを手にする焔と財前。

 財前は余裕たっぷりに口元を緩め、ジョッキを高々と掲げる。


「チアーズ!」


 そう言うなり、財前はグビグビっと三口ほどで飲み干した。その豪快さに、見守る紅牙組の男たちが一斉に息を呑む。


「ほう…」


 風間も感心したように低く息を漏らし、その様子をじっと見つめてこう呟いた。


「流石は財前。すでにかなり酔っぱらってはいるが…まだまだいけるね、これは」


 一方、ジョッキを持った焔も、財前ほどの速さではないが、静かに、そして難なくビールを飲み干す。すると、若い男が次にワイングラスを焔と財前に手渡した。


「あ!あのグラス!きっと次はワインだ!焔が好きなお酒だよ!」


 ヤトが楽しそうに声を弾ませる。

 そういえば、彼の家の棚に、きちんと揃えられたワイングラスがあったっけ。


 グラスにトクトクと注がれる赤ワイン。照明の下、深紅の液体が煌めいている様子は、なんとも優雅だ。

 焔と財前はゆっくりとグラスを口に運び、それぞれのペースで飲み干す。二人とも、ワインも難なくクリアだ。すると、焔が紅牙組の男が手に持っているワインボトルを見ながら、感慨深い表情を浮かべる。


「これは…フランス、ボルドーのシャトー・マルゴー2014か。名門ワインだけあって香りが格別だな。繊細でチャーミングな味わい。長く続く余韻も素晴らしい…。どうやら、紅牙組には、相当なワイン通がいると見える」


 ワイングラスを見つめながら焔が呟くと、風間は得意げに口元を緩ませた。どうやら、このワインは彼がセレクトしたらしい。焔はそっとグラスを置き、財前を見てこう言う。


「大丈夫か?財前。足元がふらついているようだが」


 その言葉に、財前の眉がピクリと動く。一瞬流れる緊迫した空気。だが、財前はすぐににやりと挑戦的な笑みを浮かべる。


「ふんっ。思った以上にやるじゃねえか。面倒くせえ!次は二種類まとめて持って来い!」


 続いて紅牙組の若い男たちが運んできたのは、焼酎と日本酒だ。

 焔は焼酎の香りを嗅ぐと、一瞬だけ眉を寄せた。


「へっ。天下のSPTさんも、焼酎は苦手と見たぜ」


 財前がからかうように口元を歪める。だが、焔は静かに首を振って淡々と答えた。


「いや、失礼。初めて飲むのでな。ほのかに甘く、木のような香り…。ふむ。芋焼酎もなかなか侮れんな」


 そう言うと、焔は躊躇ちゅうちょなくクイっと焼酎を飲み干した。日本酒も同様に、数秒で空にする。その落ち着きと潔さに、紅牙組一同は「オーッ!」と感嘆の声を上げた。

 焔の飲みっぷりを見て、舌打ちをする財前。少し悔しそうな様子が見て取れる。


「なかなか、やるじゃねえか」


 財前はグラスを置きながら足元をふらつかせた。どうやら、そろそろ限界が近いようだ。


「焔君もかなりの酒豪しゅごうだね。うちの財前とここまで張り合うとは…」


 すると、財前が不意に上半身を倒した。顔を覆い、ぐったりとしているように見える。まさか、ついにダウン…!?

 すかさず外科の研修医でもある花丸が声を上げる。


「ざ、財前さん!大丈夫ですか!?」


 だが、次の瞬間、財前は肩を小刻みに揺らし、ゆっくりと顔を上げる。口元にはいつも以上の不気味な笑みが浮かんでいた。


「…こうなったら仕方ねえ。延長戦だ。あそこの座卓にアルコールと呼べるものは一通り用意してある。お互いに一種類ずつ選んだ酒を相手に飲んでもらう。どうだ?」

「いいだろう」


 二人は無言で酒瓶がずらりと並べられた座卓へ向かう。その様子を見ながら、風間が静かに呟く。


「…長年の勘だが、恐らく次で勝負は決まる」

「え?」

「財前のあの目、完全に据わっていた。トドメの一杯を、全神経を集中させて選ぶつもりだよ」

「…はあ」


 私は風間と財前、焔を交互に見る。


 焔さん、若干足元がふらついているような…。

 無理はしないでくださいね…。


 すると、財前がある酒瓶を取り出し、自らの和服の懐にサッと隠した。どうやら、銘柄を伏せたまま焔に飲ませる作戦らしい。焔は「泡盛」と書かれた瓶を手に取ると、財前の元へ戻る。

 泡盛って確か、沖縄のお酒だっけ…?独特の風味が強いって聞いたことがあるけど…。

 焔は財前から注がれたグラスを静かに持ち上げ、香りを嗅ぐ。すると、彼は一瞬目を大きく見開き、動きを止めた。


 焔さん?どうしたんだろう?


「へっ。どうした?焔よ。さあ、一気に飲み干してみやがれ、ホレ!」


 財前が挑発的に笑いながら促す。すると、酒瓶をジーっと見ていたヤトが羽で瓶を指し示し、こう叫んだ。


「あ!あのお酒、梅酒だ!焔が嫌いな梅味のお酒だよ!財前、焔が嫌いな味をわざと選んだんだ!」


 ヤトの言葉に場がざわつく。実は先日判明したのだが、焔は梅干しが大の苦手だったのだ。それを知ってか、敢えて財前はそれを選んだ、というわけか。


「財前さん、ずるい!焔さん、梅が嫌いなのに!」

「ああ?そうだったのかあ?そいつは悪かったなあ~。とはいえ、ルールはルールだ。さあて。飲んでもらおうか。お前さんが大っ嫌いな梅味のお酒をよォ~」


 その瞬間、緊張が走る。

 まさかこれで、勝負が決まってしまうのか…?


 気付くと、私は両手を組み、祈るような気持ちで焔を見つめていた。すると、次の瞬間、焔は迷いなく梅酒をグイっと飲み干した。


「な、なにぃ!そんな、バカな…っ」


 目を見開き、驚きの声を上げる財前。だが、財前はグラスをじっと見つめた後、表情が一気に険しくなる。よく見ると、僅かに残されたグラスの液体は、白っぽい色をしていたのだ。


 もしかして、あれは…。


「あ!てめえ!混ぜやがったな!牛乳と梅酒を!」


 財前が拳を握り締めて叫ぶ。どうやら、焔は私とヤトがさっき飲んでいた牛乳を、こっそり梅酒に入れて飲みやすくしたらしい。


「この野郎~…」


 財前が焔を睨みつけると、紅牙組一同からも怒号が飛ぶ。


「牛乳を混ぜるなんて卑怯だぞ!」

「正々堂々って言葉、お前知らねえのか!?」


 しかし、そんな中でも焔は落ち着きを払ったまま、低い声でこう告げた。


「正々堂々というのは、私の中ではスポーツなど、ルールが定まった枠組みの中で成立するものだ。悪いが、日頃からそんなことは関係ない連中の相手ばかりしているものでな。正々堂々などという綺麗ごとは、私には通じないのだよ」


 焔はゆっくりと、財前に歩み寄る。


「それに、君はさっき私の連れが未成年なのを知っていながら、無理矢理酒を飲ませようとした。そんな輩が意気揚々と用意した酒が飲めるほど、私はできた人間ではない」

「な、なにい~」


 すると、二人のやり取りを聞いていたヤトが、呆気に取られながらこう呟いた。


「…なんか、前にもこんなやり取りしてなかったっけ?」


 私は数日前を思い返した。確かに、紅牙組に来たばかりの時も、二人は喧嘩をしてこんなやり取りをしていた。まさか同じ展開を二回も見ることになろうとは…。


「茶番はここまでだ。私が用意した泡盛を、さっさと飲み干してもらおうか」


 焔の言葉を受け、財前は酒を持つ手を震わせる。怒りのせいか、酔いのせいか…それはわからないが、次の瞬間、財前は勢いよくグラスを口へと運び、泡盛を一気に飲み干した。その豪快な飲みっぷりは、周囲も息を呑むほどだ。


「うおおおおおおおお…」


 声にならない財前の雄叫びが聞こえたような気がする私。だが、飲み干したその瞬間、財前はその場に崩れ落ちた。


「ざ、財前さん!」


 花丸が驚きの声を上げて駆け寄る。財前の様子を確認すること数秒。花丸はふーっと胸を撫で下ろした。


「完全に酔い潰れてますね…寝ちゃってます」


 花丸が言い終わるのと同時くらいに響き渡る財前の豪快ないびき。紅牙組一同が一斉に胸を撫で下ろす。すると、間髪入れずにガシャンという音がした。焔が手にしていた梅酒のグラスを床に落とし、割ってしまったのだ。焔は一瞬床を見つめるが、その時ふらりと足元がよろめく。


「ほ…焔さん!」


 私は急いで駆け寄り、彼を支える。焔はなんとか立ってはいるものの、辛うじてという感じだ。顔にはまったく出ていないが、彼も限界だったらしい。


「久しぶりの男の喧嘩、楽しませてもらったよ」


 風間は心底楽しげな笑顔を浮かべながら、焔と私を見やる。一方、花丸は酔いつぶれた財前を介抱していた。


「一旦、出ようか。財前さんも部屋に運ばないと」


 そう小さく呟く花丸。私は頷き、風間に軽く会釈をし、焔を支えながらその場を後にした。

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