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第018話 発端

 私は運動の成績が良くない。

 今日の体力テストでは一年生は市内の運動公園で行われ、各生徒が互いに記録を競い合っていた。

 私はそんな中ドベに近い記録ばかり出してしまい、憂鬱な気分になっていた。

 それでも友達が励ましてくれたお陰で何とか残りの測定までは頑張れそうだ。持つべきものは友達だね。

 友達と弁当を食べて談笑し、体力テストが再開された。

 全8項目中6項目の測定が終わったところで、小休憩も兼ねてお手洗いに向かったときにそれ・・は起きた。


 お手洗いは公園の隅のポツンと建った小屋の中にあり、林と接している場所だった。

 虫がブンブンと近くに寄ってくることもあり、周りに人が見えずどうにも陰気だ。

 私が来たときにも他の生徒が見当たらず不気味さを覚え、早く用を足してこの場を離れようと思っていたらお手洗いの前を「点検中」の看板が通せんぼしていた。

 あれ、と思っている内に

「すみません」

 と男の声が聞こえた。ビクっとして振り返るとそこには清掃員と思しき男の人が立っていた。

「今ここのトイレは使えない状態でして、あちらにある仮設トイレのご使用をお願いします」

 と私に案内してきた。

 仮設トイレ? そんなのあったの?

 清掃員の人の言うことにそこはかとなく違和感はあったものの、とりあえずその人が指す方向へ歩いていった。

 歩いて少し経っても先にあるのは林の木々ぐらいのもので、「点検中」のトイレがあった場所よりも暗くなっていくだけだった。

 仮設トイレのようなものは一切見当たらない。

 しかもその仮説トイレを利用して戻っていくような人ともすれ違わない。

 どういうことだろうと思い始めた直後、突然清掃員の人が私の口を手で塞いできた。

 え、何⁉

 そう驚く暇もなく清掃員、いや男は空いた方の腕で私の息ができなくなるギリギリの所まで私の首を絞めてくる。

 普段当たり前にこなせていた呼吸が途端に難しくなる。それだけで恐怖心が一気に跳ね上がった。

 殺される。

 命の危機を感じてどうしようもなく混乱する私の耳元に何かが聞こえてきた。

「大人しくしろ」

 私の耳元で囁いた男の声だった。

 肌を粟立たせるその声は、およそ人から発したものとは思えなかった。

 人の心のない化け物の声にしか聞こえなかった。

 男の腕力は強く、私には首を囲う腕を振りほどける気が全くしなかった。

 逆らったら何をされるかわからない。それこそこのまま私の首を折ってくるかもしれない。

 ひたすら怯えた私は、男に対して小さく頷いて従うよりほかはなかった。


 男が私を捕えたままどこかへ連れ去ろうとした。

 私、これからどうなるんだろう。

 私、生きて帰れるのかな。

 途轍もない不安が私の頭の中を占めていたとき、私に男から逃げる最大のチャンスが降って湧いた。

 私と男の頭の間の僅かな隙を、鉄球のようなものが直線状に飛んできたのだ。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 男は自分のすぐ横を通り抜けた鉄球に怯み、私の口と首を覆う腕の力が緩んだ。

 男の力の緩みを感じた瞬間、恐くて抵抗できなかった私が自分でも驚く程の勇気を出した。


 逃げるなら今だ!


 私は男の腕から離れるため、膝を素早く曲げてしゃがみ、男の腕の下からすり抜けた。

 そして来た道へ逃げ出した。

 男が追いかけてくると思い、振り返る暇もなく必死に逃げた。

 運動が苦手な私が火事場を脱出するような全力を出して、ひたすら逃走した。普段の体育の授業でも絶対出せないような足だったと思う。

 逃走中、すぐに男に追いつかれるかもという恐怖がずっと頭にあったが、どういうわけか後ろから足音は聞こえてこなかった。

 そして私は先生方のいるテントに辿り着いた。

 息を切らして、多分顔も青白くなっていたであろう私を見て「どうしたんだ」と声を掛けてくれた先生に、事情を説明した。

 トイレに向かったら清掃員の姿をした人に襲われたことを。

 そこから必死に逃げ出してきたことを。

 私の話を聞く内に先生方の顔が見る見る険しくなっていくのがやけに印象に残った。

 事情の説明を終えた後、足に力が入らなくなってその場にへたり込んだ。

 元から涙目だったが、さらに目から壊れた蛇口のように涙がとめどなく流れ落ちた。


 私、あの状況から助かったんだ。


 近くにいた女の先生が私を支えようとしてくれる。ありがとうございます。

 でも、今は家族か親友に来てほしい。

 いくら先生という大人達が守ってくれるにしても、弱い所を何の遠慮もなく見せられるぐらい親しい人達が今近くにいないのは、気が狂ってしまいそうな程に心細かった。

 お母さん、はさすがに無理だよね。


 皐月、悪いけど今は私の傍にいてもらっていい?


 先生に、クラスメイトであり昔から仲の良い幼馴染でもある日高皐月ひだかさつきを呼んでほしいと我儘を伝えたところ、先生は特に反対することなく応じてくれた。

 皐月が来るまでの間、何となく空を見上げていた。

 さっきの陰気な場所を忘れさせるように、太陽が私のいる公園をまばゆく照らしていた。


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