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はっとして目が覚める。まだ朝の5時前だ。
3月の早朝はまだ日が昇るのも遅く、部屋の中も薄暗く肌寒い。
何か大切なことを思い出そうとして、思い出せなくて……夢で何か核心に触れたかと思うと突然夢が終わってしまう。そうして未だに時々目を覚ますことがある。
フレデリック……
昨日私が見たフレデリックは、本当に彼自身だったのか?
……。
私には、思い出せない空白の時間がある。
だがそれを境に、私は人には見えない人間が見えるようになってしまったようだ。8年前の、あの大災害の、直後から。彼らが何者なのかはよくわからない。
だが彼らは皆、誰と交流することもなく、個々人で違う世界を生きているかのような……そんな雰囲気がある。そこにあるのは恐らく、孤独だけだ。
この世界は混沌に満ちていて、生者も死者も、同じ世界に生きている。だから……彼らは《死者》なのではないかと漠然と思った。うっすらと透けて見えるから、という理由もあるが確証はない。それに、なぜ突然見えるようになってしまったのか……。
だが昨日のフレデリックの様子はそれとは全くの別物だった。何かしらの意志と目的を持ち、小さな死神と共に確実にあの場で何かをしているように見えた。だから実体を伴っていると思ったんだ。あれは……なんだったのだ……
……
あの大災害から8年。……あっという間の8年だった。
あの時、一体私の身に何があったのだろう。だけど確かにあの町にいた。目を覚ました時にはすべてが終わっていて、最初ぼやけた視界に入ったのは、ひび割れた、くすんだ白い天井だった。
……私は病院のベッドの上にいたのだ。
私は泣いていた。なぜかはわからない。悲しかったのか、辛かったのか、安堵したのか……それらのどの感情かもわからなくて、ただただ涙だけが流れていた。
暫く呆けたように天井を眺めていたが、直前まで何をしていたのか……記憶を探るも、どこにも行きつくことはなかった。
……
そうしてまもなく巡回の看護師がやってきて、私が目を覚ましたことを医師に告げた。やってきたのは私の見知った顔……天文部のOBの先輩だった。彼は医師になって、ここN大学病院の脳神経内科で働いていた。
……そうだ、
突然、それまでのことをはっきりと思い出す。
それまで親に言われるがままに勉強詰めの毎日を真面目に取り組んできた。そうして2浪までしてやっとの思いでつかんだ医学部の合格。だけど合格と共に大学で一人暮らしを始めたがために、そんな日々から解放され、箍が外れたかのように遊び惚けて……1年留年までした。
……俺は何やってたんだろう。医学部合格が人生のゴールだった俺は、人生の次の目標を見失っていた。毎日目的もなくぶらぶらと過ごした俺は、本当に医者になりたかったのかさえ怪しかった。天文部に入ったのだって、ただ居場所があって楽そう、という理由だけだった。
……
だけどこの時俺を診てくれた先輩の医師は、俺が目を覚ましたことを驚き、喜んでくれているようだった。俺は、1週間以上意識を失ったまま眠り続けていたらしい。最初は救急部に搬送されたものの一向に目を覚まさないから、ここ脳神経内科に移って来たのだと言われた。
「災害の時、どこで何をしていたんだ?」
そう聞かれても、それだけはどうしても何も思い出せなかった。災害の時、どこで、何をしていたのか。
ただ鮮烈に覚えているのは『貴方は生きて……、―――してください』の言葉。
だけどそれが誰の言葉だったのか、どんな内容だったのか、そのシチュエーションさえ今でもはっきり思い出せない。
それを聞いた医師は、「一種の記憶喪失のようなものかもしれない」と、そう言った。
CT等の検査で脳にダメージはなかったが、燦燦たる現場に居合わせたことによる心的外傷後ストレス障害(PTSD)によるものなのかもしれない、と。それほどまでに、この大災害は凄惨を極めたものだった。
あれが誰の言葉だったのか。あの時俺は何をしていたのか。思い出したい……だけど、思い出せない。
だがあの時の『貴方は生きて』の言葉が俺の使命となって、俺を変えた。何が私を動かす原動力だったのか……脳が忘れていても、魂が覚えているような、そんな感覚。
その後俺はそれこそ死に物狂いで勉強した。遅れた分を取り戻そうと。
……一人称を「俺」から「私」に変えたのも、その時だ。
……。
時計を見る。…………しまった、もう6時を回っている。
そんなに考え事をしていたのか。今日は出勤前にガエルと会って話す約束をしている。
昨日の仕事終わりにガエルからのメッセージを見て驚いた。なんとフレデリックから手紙が届いていたらしい。
フレデリック……やはり謎は謎のままだ。
疑問と、煮え切らない思いを携えながら、私は家を出る支度をした。