「今度は……俺の言うことを聞いてくれよ……なぁ」
オッサンの消えそうな声に、私はようやく我に返った。
震える膝を叩き、唇を噛んで立ち上がる。
引きずるように、何度も転びながら下水から足を上げる。
くっさい下水道に、オッサンの奇妙な歌が響く。
生きていてもいいことなんてない。
それでも、生きていかなければならない。
生きていかなければならない。
それなら――。
音痴で聞くに堪えないメロディに、くそったれな歌詞を載せた歌だ。
それなのに、頭にこびりついて離れない。
何度も、何度も、刺されて裏返るオッサンの歌を背に。
私は走った。
「チクショウ! チクショウ! チクショウ!」
顔から転んで腕やヒザも擦りむいたけど、それでも走り続ける。
そのあとのことは――よく覚えていない。
ワクチン強奪事件から何日経っただろうか。
私は買い物のついでに、オッサンが寝泊まりしていた公園に来ていた。
夜の公園は秋風で少し肌寒い。
板を貼り合わせただけの家は弱々しく、ノックで崩れ落ちてしまいそうだ。
何度叩いても反応はない。
ブルーシートをめくっても、カップ麺の空き箱、汚い毛布があるだけだ。
オッサンは死んだのだろうか。
死ぬ瞬間を見ていないので、どこかでまだ生きているような気がした。
でも、抜け殻の家には戻ってきた形跡なんてない。
チクリと刺す胸の痛みが不快感で、右手でわしづかみにしてみる。
財布を盗んでも、万引きしても、養父をめった刺しにしたときですら痛まなかった心が。
ムズムズして……何か変な感じだ。
まさか、後悔――しているのだろうか? 自分でも分からない。
私は軽いめまいに頭を抱えながらその場を後にした。
空に浮かぶ星は、汚い空でよく見えなかった。
家に帰った私は、ダークウェブにアクセスし、ワクチンを売買する準備を行った。
英文で情報を入力し、あと一クリックで売買できるところまできている。
出品額は一本五千万円。相場の半額。
正規ルートの半額だが、先方が出した条件だから仕方がない。
ちなみに、ワクチンはダークウェブでは、一般的に出品されている商品だ。
その百%が詐欺であり、お金だけ振り込ませるトラップだが。
こうやって信頼関係が築けている間でしかホンモノはやり取りされない。
少し考えれば分かることだが、これだけ出品されているということは、引っかかる人間もいるってことだろう。
あと一クリック。
あと一クリックで闇の商人にワクチンが渡る。
でも、その一クリックに手が届かない。
まるで呪いがかけられたように身体が動かない。
そうしているうちに、オッサンの汚い笑い顔が思い浮かんだ。
「チッ」
私はソファに倒れこみ、大きくため息をついた。
「はーうざいうざいうざい」
布団がきもちいい。
いつの間にか夢心地になり、そのまま少しだけ寝た。
幼い頃、誰かに手を引かれ、海に行く夢を見た。
二時間ほど寝ていたのだろうか。
窓の外はもう暗くなっていた。私は起き上がってノートパソコンを開く。
年季もののちゃぶ台がきしむ中、キーボードを操作して情報を集めた。
検索ワードは「ワクチンの複製方法」だ。
私は――ナナナの話を聞いて、一つだけ感じたことがあった。
あのときは、自分の感情が何なのか分からなかった。
でも、時間が経った今なら分かる。
たぶん、ムカついたんだ。
ナナナは私に似ている。
自分が傷つきたくないから、先に相手を傷つける。
傍から見た私はこんなにもダセーヤツなんだと自覚させられた。
「思い出すとまたイライラが」
乱暴に頭を掻いて、背を伸ばす。
オッサンは悪事に手を染め、ホームレスになった。
かっこ悪くて、ダサくて、汚く、泥にまみれた惨めな負け犬。
でも、私にはかっこよく見えた。
どれだけみじめな姿になっても、大事なものは頑固に譲らなかった。
地位も、名誉も、命さえも投げ出して譲らなかった。
弱い自分に負けなかった。
私は……オッサンの生き方を――悪くないと思わされた。
膨大なネットの海から必要な知識をつけていく。
論文、研究、書籍、手あたり次第だ。
それで分かったことがあるのだが……。
ワクチンはウイルスの一部のタンパク質を人体に投与し、免疫が出来る仕組みだ。
複製には、ウイルスの確保、保存、観察、改変には相応の機材が必要になる。
これまでの貯金で買える機材もあるが、そうでない機材もある。
いくらダークウェブとはいえ、情報も不完全だ。
それに、臨床実験を行う段階では相応の環境だって必要になってくる。
問題は山積み。
私は再度ベッドに寝っ転がりながら考えた。
「やっぱ無理じゃん……」
換気扇の回る音、電車が通過する轟音。
慣れてしまった振動の中で考え続ける。
「一本だけでも売れば……」
その五千万円は元手になる。
大学にだって余裕で行ける。
でも、それはズルだ。
オッサンの言葉が思い起こされる。
「わーったよ! バカバカ! 妄想の中なのにウルセーな!」
せめて「まともに生きろ!」とか「バカなことは止めろ!」と叱って欲しかった。
そうすれば、舌と中指つきたてて「バーカ」ってオサラバできたのに。
こうなってしまえば、ワクチンはただのお荷物だ。
むしろどう処理するべきか悩まざるを得ない。
ひとまず神棚に堂々と添えておく。うし、カッキーじゃん。
ドロボーが入ろうとて、まさかこんだけ目立つものが、十億の価値あるとは思わんじゃろて。
「まずは腹ごしらえだな……」
私はグゥと鳴る腹を抑え、ゆらりと立ち上がった。
パーカーとスニーカーを引っかける。
「まっとうで、割のいいバイト……どっかに転がってねーかな」
この扉を開けたら、オッサンが立ってたりして。
バカみたいで、ありえない妄想。
でも、おもしろそうなので、その妄想に乗ってみる。
オッサンは開口一番「銀行強盗でもしにいくか? 金、必要なんだろ?」って聞くんだ。
私が「そういうのには飽きた」って言ったら、少し喜んで「じゃさ、マグロ漁船行こうぜ、合法だしめちゃ稼げるぞ! 求人誌買いに行こうぜ! 求人誌に乗ってるのか? いや、そんなことよりまずは腹ごしらえだな。景気づけに叙々苑行こうぜ」って言うんだ。
はは、唇曲げてる様が想像できすぎる。
私はさー「うざうざうざうざ!」って叫んで「反抗期?」ってあきれられて、最後は護身用のバット振り回してケンカになる。
ケンカっつーか、私の一方的な暴力。
ただそれだけの――バカみたいな妄想なのに――私は、立てなくなった。
倒れるように壁に寄りかかって、次々落ちていく涙に肩を震わす。
あぁ、オッサン。
会いたいよ。
会いたいのに、もう会えない。
私が巻き込んだ。
私が殺したんだ。
後悔と悲しみの渦に飲み込まれそうだ。
窓の外、ヒラヒラ風に揺れるカーテンの先、大きな月が見える。
生きていてもいいことなんてない。
それでも、生きていかなければならない。
生きていかなければならない。
それなら――。
エピローグ
「ロク姉ちゃん、スマイル五個」
私は慣れないバイト先で、目の前の少年に引きつった笑いを提供した。
何だ、このクソバイト。
金稼ぐってホント大変だな。
死にてー。
「つか、毎度スマイルだけ頼むな。何か買えし。あと五個とかおもしろくないし殺すぞ」
「金ねーし。つか、ナチュラルに客を脅すなし!」
施設時代に一緒だったタダアキが、ニカっと白い歯を見せて笑った。
中学になって少年野球のチームに入ったらしく、焼けた肌に坊主頭がよく似合う。
以前は小学生で小さかったのに、今じゃ私より背も高い。
昔はあんなにかわいかったのに。
あーあ、こんなになっちまって。
ま、私みたいにグレなかっただけ及第点か。
「姉ちゃん話しやすくなったよな。今のがいいと思うよ。あ。あと今度、施設に遊びに来なよ」
「だから、いかねーっつの」
「じゃ、俺がまた来る」
「もう来るな」
私は背を向けたタダアキを呼び止めた。
「忘れもん」
振り返ったタダアキに、好物のベーコンレタスバーガーを投げつける。
今日も来ると思って用意しておいたのだ。
タダアキはさすが野球部。
暴投バーガーも物ともせずキャッチ。
こちらを見ていた。
驚くタダアキに、何と声をかけるべきか迷う。
自分が持つ言葉じゃあ、どれも響足りない気がした。
だから――誰かの言葉を借りることにした。
「お前は、よく頑張ってるよ」
タダアキはもう一度ニカっと笑って、店を後にした。
生きていてもいいことなんてない。
それでも、生きていかなければならない。
生きていかなければならない。
それなら――。
格好よく生きようじゃあないですか。
おわり