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第6話 篠崎吾郎

 生きていてもいいことなんてない。


 それでも、生きていかなければならない。


 生きていかなければならない。


 それなら――。




 俺はその歌が嫌いだった。


 特に最後のフレーズがよろしくない。


 酔っぱらったタツさんがよく歌ってたから覚えちまったけど。


 できれば止めてほしかった。


 俺みたいな小市民にや、耳に痛い歌だった。


 そんな俺に入ってきた仕事――。


 忘れもしない。それは二年前の雨の日だった。






「成功報酬は十億。前金一億円で依頼したい」




 タツさんの目は本気だった。


 いつもの革ジャンにサングラス。


 袖から見える手の甲、指先は入れ墨で青い。


 鍛えぬいたゴツい身体と焼けた肌。


 怪しいその男は、見た目の通りの闇の住人――「情報屋」だ。


 俺は昔一度だけ世話になったことがある。


 その後はたまにゴールデン街やのれん街で顔を合わせる腐れ縁だ。


 しかし、どうにも今日は様子がおかしい。


 いつもは汚い横丁か路地裏で会うのが常だったのに、今日は家に招かれたのだ。


 情報屋が家を教えるたぁ、単に信頼関係の話じゃない。


 裏がある。嫌な予感はあった。


 歌舞伎町の大通りを少し歩き、脇道に入って見上げるテナントビル。


 昭和五十年代に建てられた五階建てのビルの五階に、タツさんの事務所兼自宅はあった。


 狭い階段を数段上り、エレベーターに乗り込むタツさんの背を追う。


 タツさんは上機嫌らしく、いつもの歌を口ずさんでいた。


 エレベーターを降りた狭い通路から、ギラギラに光る夜の街が見下せる。


 出会いカフェ、居酒屋、コンビニ、バー、ゲームセンター。


 うんざりするほどの喧騒で溢れた街をしり目に、事務所の戸を開ける。


 何かを期待していた訳ではないが、ごくごく普通の事務所が広がっていた。


 事務机が三つ、資料棚、冷蔵庫、神棚に応接セット。


 窓際には洗濯物が干され、古びた換気扇がカタカタと音を鳴らす。


 奥に見えるドアの先には、寝具などがあるのだろう。


 派手な身なりのタツさんからすっれば「らしくない」殺風景な印象だ。


 お互いヘルメットを外して置き場にしている棚の上に置く。


 俺の「嫌な予感」は的中していた。


 ソファに腰かけ、酒を注ぎながら金の話が飛び出したのだ。




「何で俺に? 自分で言うのも何だけど、他に適任いるんじゃない?」


 十億と聞いちゃ興味がないと言えばウソになる。文字通り「遊んで暮らせる」額だ。


 が、逆に言えば「額が額」だ。


 相応のリスクと難易度の仕事であることは間違いない。


 少なくとも、俺みたいな足を洗った小物に頼む仕事ではないだろう。


「お前が適任なんだよ、ゴロー」


 タツさんは小さく息を吐くと眉根を寄せた。怖い怖い。


 しゃがみこみ、部屋の隅に行儀よく並ぶ鈍色のアタッシュケースの一つを前に置く。


 パチンという音二つの後、開いたケースの中には、ビッシリと札束が並んでいた。


 映画やドラマでよく見るアレだ。


 嫌でも胸の鼓動が高鳴り、喉がごくりと鳴ってしまう。


 わざわざ現ナマで見せるたぁ憎い演出だ。


「据え膳、何たらって言うだろ?」


「依頼内容さえ聞いてないのに返事できるか! タツさん、人が悪いよ。知らない人についていったらいけないってガキでも知ってることだよ?」


「知らない仲でもないだろ、キョウダイ」


 こういう時に限ってキョウダイだ。


 都合がよい血縁関係に、俺はため息をついた。


「依頼内容はワクチンの強奪。数年内にワクチンが日本に来るってウワサだ」


「一本一億っつーあの?」


「そうだ。俺には昔、死んだ娘がいてな」


「待った、待った! 聞きたくない! 聞きたくなーい!」


 タツさんには恩がある。そりゃ、どんなお願いだって無碍にできない。


 でも、それとこれは話が別だ。


 オレオレ詐欺の受け子がセイゼイの俺に強奪だって?


 荷が勝ちすぎる。


「大丈夫。計画はある。お前は指示通り動くだけだ。仕事が終わったら南の島でバカンスでも楽しめばいい」


 俺はボサボサの髪を掻いた。湿った空気が肌に貼り付く。


「でもよぉ……」


 タツさんは膝をつくと、床に手をついた。


「俺は……この瞬間のために汚い仕事をしてきた。前金が少ないってんなら二億出す。だから頼む……」


 生まれて初めて土下座なんてもんを見た。


 思っていた以上にみっともない。


 タッパ百八十以上あるタツさんが小さく見えた。


 タツさんはバカだった俺を助けてくれた。


 あのまま受け子を続けていたら、捕まるか半グレになっていたかだ。


 地獄に落ちる前に拾ってくれた兄貴分だ。


 前科もつかず、医者になれたのはタツさんのお陰だ。


「……っ、てまさか!」


「お前が医者だからこそ……頼みたいことなんだ」


 そう、俺のワクチン強奪計画は、ロクが持ってきたワケじゃない。


 とおの二年前から――始まっていたのだ。






「俺の娘がウイルスに感染したのは、娘が高校三年生の時だ。十二年前……ちょうどワクチンが出回り始めた頃だな」


 炭酸がなくなったのだろう。


 タツさんはロックに切り替えた酒を転がしながら言った。


「え? タツさん結婚してたの?」


「意外そうに言うな。ま、離婚したがな。俺はそれまでまっとうなサラリーマンだった。だが、ワクチンって高いだろ?」


「まぁ」


 一本一億円が相場と聞いている。


「詐欺に手を染めた。娘が一か月で死ぬかもしれないってんだ。俺に迷いはなかった。意外と詐欺師の才能があったのか、何とかワクチン三本買えるくらいの金は用意できた」


 短期間でそれだけ用意できたってのには驚きだ。


 でも、それ以上に、タツさんがサラリーマンだったことのほうが驚きだ。


 誰よりも闇の住人が板につくこの人にも、普通の人生があったのか。


「何だよ、お金が用意できたならハッピーエンドじゃん」


「うだつのあがらない親父が一億円のワクチン持ってきたんだ。どう考えても都合がよすぎるだろ?」


「ま、娘さんの視点だとそうなるよな」


「受け取ってくれなかった。悪いことで得た金だって分かってたんだろうよ」


 タツさんはロックのウイスキーを一気に流し込んだ。


 生まれてこのかた見たことがない、何とも言えない表情だ。


 悔しさとは違う、諦めに近い表情。


 でも、きっとそこには何の感情もない。


 時間が経ちすぎて渇ききった顔だ。それが照明の暖色で寂しげな影を作る。


 俺には破滅願望があったのかもしれない。


 医師免許取って、これから医者になるって時に、悪友に誘われるまま詐欺に加担した。


 だから――という訳でもないが、結局、俺は根負けした。


「分かった、やるよ。やればいいんだろ」


 年単位の計画。


 未練はないが、恐らく医者も辞めないといけないだろう。


 数年は海外逃亡――。


 人生計画メチャメチャだが、よくよく考えれば俺の人生に計画なんざない。


 稼いだ金は酒に消えたし、貯金なんてものもしていない。


 人間、最悪死ぬだけだと考えるポジティブ(笑)人間。


 そんな俺の本質を見抜いて関係を続けていたなら、タツさんはとんだ策士だよ。


 まぁ、それを差し引いても、ようやく借りが返せるチャンスなのかもしれない。


 それに、十年以上付き合って、何だかんだタツさんと飲む酒が好きだった。


 あぁ、俺には破滅願望でもあるんだろう。


 それだけの理由で決めた。




 タツさんの武器は情報だ。


 闇の住人だけでなく、警官、芸能界、官僚に至るまで、太いパイプをいくつも持っていた。


 ただ顔が恐いイカついオッサンではない。


 義理人情を重んじる性格から顔も広かった。


 そのタツさんの人脈も、今思えば「この計画」の為のものだったのだろう。


「ワクチン奪ってどうすんだ?」


 もうタツさんの娘さんは亡くなっている。


 というか、そもそも一億円を出せばワクチンは購入できる。


 わざわざ俺を経由してワクチンを入手する意味が分からない。


「ワクチンを複製する為だ」


「答えになっていないっつの。それなら正規ルートで入手すればいいじゃん」


「それがそうもいかない。娘の件でワクチンを購入して分かった。ヤツらはワクチンが複製されないよう、その場でワクチンを投与する。そういう契約を結ばされるんだよ」


「……なるほどね」


「バカげている。人類の五%を死に追いやったウイルスだぞ? 出し惜しみするなんざ気が狂ってる。どうりで競合が出てこない訳だよ」


「国からの命令とかでどうにかならないの?」


「色々と理由をつけて跳ねのけてるんだろうさ」


「タツさんは正義の味方になりたいんだな」


 タツさんが不機嫌そうに喉を鳴らした。


「そうだよ、悪いか?」


 今日一の悪い顔だ。


 悪びれもせずそう言う悪人顔に、酒を噴出しそうになる。


「いや、悪くねぇ。そういう理由ならテンション上がるってもんよ」


 俺は景気づけに一杯あおり、ソファに首を預けた。


 角張った氷がグラスにぶつかる音が心地よい。


 俺は自分の頭で考えられないバカだ。


 流されて詐欺に加担した。


 今はまともに医者やっているとしても、その事実はずっと残り続ける。


 どんなに忘れようとしても、ふとニュースで詐欺事件を報道していれば、苦い思い出が蘇る。


 過去を消したい訳じゃないし、帳消しにできないなんて分かっている。


 それでも、タツさんの計画に乗っかれば、何かが変わる気がした。


 それに、これは俺が決めた。俺の意思で決めたことなんだ。


「タツさん、一つ聞いていい?」


「何だ?」


「十年くらい前の話なんだけど……もしかして、この計画の為に俺を助けた?」


「当たり前だろ」


 ノータイムで認めるところがタツさんらしい。




 次の日、俺はタツさんを部屋に招いた。


 運命共同体。こっちも腹を括ったと伝える意味もある。


 それを分かってか、上機嫌のタツさんが軽口をこぼす。


「やけに質素な部屋だな。女作れねぇぞこれじゃ」


「そんなタツさんも一人やもめ長そうだけどな」


 ちなみに、どちらの家だろうとやることは一緒だ。


 棚から一番の酒を取り出してふるまう。


 ソファに座ったタツさんは、強盗話をツマミに酒をあおった。


「金庫を正面から突破するのは不可能だ。セキュリティが硬すぎる」


 扇風機の風を浴びるタツさんがピーナッツをワシ掴みにする。


「どうやって攻略すんの?」


「お前は病院に医者として潜り込んでほしい。数年がかりで現場の信頼を得る」


「まぁ、そうなるよな。その為の俺だ。んで、停電でもさせるの?」


「それがセキュリティ無効化には手っ取り早いんだが、病院だろ?」


「予備電源があるかぁ」


「どうにか病院の見取り図を用意する。それで金庫のセキュリティのラインだけ断線させる。断線なら予備電源があろうと関係ない」


「りょ」


「何だその返事は?」


「にしてもこれって違法な裏取引だろ。何で病院?」


「ナナナがオーナーの病院なんだよ」


「すごい子だねぇ」


「死んだ親父から引き継いだ事業とはいえ、彼女が継いでから資産は増えている。間違いない天才だよ」


 熱をこめて何年も用意してきたことが分かる練りこまれた計画。


 それは計画の内容だけでなく、情報収集の量からも伺えた。


 俺はそれに乗っかって、仕事が終われば南の島に逃避行。


 それだけの話だった。




 渋谷駅から徒歩十分、宮益坂を上ったところにある大東山病院――。


 それが俺の新しい勤め先だ。


 夜勤のない診療科なので、これまでより労働時間は短い。


 病院に到着し、時計を見ると予定を少し押して既に七時半を回っていた。


 事前に送られてきたカードキーをかざして入館。


 今度、裏口もチェックしておく必要がありそうだ。


 そんなことを考えながら調剤室の横を抜け、事務所に入る。


 研修医はすでに机に向かい、カルテチェックを行っていた。


「あ、篠崎さんですね!」


 パタパタとスリッパを鳴らし、迎えてくれたのは若い女性看護師だ。


「はい、篠崎吾郎です。よろしくお願いします」


 瞳を輝かせ、こちらを見上げる様子は仔犬のようだ。


 宮田と名乗ったその女性は、満面の笑みで色々と説明してくれた。


「朝カンファの後に医師の皆さんも紹介させていただきますね」


 朝カンファとは朝のカンファレンスの略で、前日入院した患者を全員でチェックする会だ。


 そのあとは病棟回診だろう。


 初めての転職がまさか騙す為とは、我ながら胸が痛い。


 周囲の医者や看護師も人がよさそうで、転職したばかりの俺を気遣ってくれた。


 その気遣いが、チクチクと胸に刺さる。


 俺はもともと医者になりたかった訳じゃなかった。


 むしろ医者にはなりたくなかった。


 それでも、十年勤めていれば、やりがいも感じる訳で。


 その仕事を冒涜しているようで後ろめたさはあった。


 まぁ、この胸の痛みは、俺にもまだ善意なるものが残っていた証拠とも言える。


 前向きに受け止めよう。




 それからの二年は、急がしさもあってアッと言う間だった。


 タツさんの情報通り、ワクチンが日本で売買されることになった。


 俺はしっかり大東山病院の内科医、篠崎吾郎だ。


 だが、すべてがうまくいく訳ではない。


 計画実行の寸前で、タツさんの計画をかき乱す人間が現れた。


 渋谷ロク。十七歳の少女だ。


 網が広いタツさんは、ロクという少女がワクチンに興味を示している情報をキャッチした。


 早速、歌舞伎町のタツさん宅で会議を行う。


「ガキだろ? 遊ばせておけばいいじゃん」


「そうもいかない。年齢は十代だが、腕はプロだ。無視できない。俺が情報の出し渋りをすりゃ、こいつは別の情報屋を当たる。そうなれば、俺らの計画に支障が出る」


「囲った方が安全ってことか。いやいや、足手まといだろ」


「ロクの腕は確かだ」


「妙な肩入れしてない? 鬼の情報屋の名が泣くぜ」


「なぁにが鬼だ。人情屋で通ってるっつうんだよ」


 俺は盛大にため息をついた。


 忖度しないタツさんが手放しで褒めるなんて珍しい。


 ロクという少女は、相当な腕なのだろう。


 ここで言う腕は、命を預けられる、そういうレベルの話だ。


 信じられないが、前の仕事内容を聞かされて納得せざるを得なかった。


 それでも、俺が答えに窮していると――。


「前金を追加で用意する」


 タツさんが血走った目で前のめりになった。


 目的の為なら金を惜しまない狂人の目だ。


「分かった、分かったって! やればいいんだろ」


「そうなれば、ロクの安全は第一だ」


「年頃の娘には優しいことで。娘さんでも重ねてるのか?」


 すごみのある顔で睨まれた。


「計画の難易度が跳ね上がるんだ。軽口くらい許してくれよ」


 最悪、トカゲの尻尾くらいには使えるかもしれない。


 そう思うことで納得した。


 俺は「タツさんから紹介された元伝説の詐欺師」という設定でいくことにした。


 リアリティを出す為、タツさんの過去話を設定のベースにする。


 娘のために詐欺を働き、最終的にホームレスになったことにする。


 それでロクの話を聞き、彼女の計画を探る。


 ちなみにタツさんは情報の受け渡しだけで表向きは計画に加担しない。


 さすが裏の住人のスター、卑怯すぎるぜ。




 ロクのことを知って数日後。


 俺はホームレスになりきっていた。


 ホームレス仲間もでき、昼間っから酒盛りに華を咲かせた。


 そんな俺の段ボール新居に、タツさんが訪れた。


 タツさんは屋外なのでフルフェイスのヘルメット姿だ。


 しかし、黒地に金の竜のヘルメットって……情報屋にしては悪目立ちしすぎじゃない?


「お前、ヘルメット無しで生活するとか死ぬ気か?」


「死ぬ気はねぇよ。でも、そこまでやらないとおかしいだろ?」


「感染率は低いっていうが……気休めだが予防薬くらいは飲んでおけよ」


 タツさんは差し入れのカップ麺やら鬼殺しを置いて帰っていった。


 その数十分後、顔を覗かせたのは――待ちに待った「渋谷ロク」だった。


「バイトしないか?」


 ヘルメット越しで顔はよく分からないが、若い割に落ち着いた声音だ。


 年相応の華奢な体を見て心配になる。


 相棒としては頼りないナリだ。


 ちなみに、こう見えて俺は演劇派だ。


 幼稚園のときは見事に木の演技で「本物の木みたい」と絶賛の声を浴びた。


 そんな演技派な俺は、目を輝かせながら聞いた。


「いくらくれんの?」


 どこからどう見ても物欲しそうなホームレスだろう。


「二億五千万円くらい?」


 二億五千万円――。


 ホームレスだったらどう反応するのか?


 そりゃそんな大金、逆に怖い。俺は興味ないふりをしてふて寝した。


「ウソじゃねーって、話聞けよー」


「ウソじゃねぇなおさら聞けねーよ、銀行強盗でもすんのか?」


 間を開けてロクがこぼした。


「金庫破りをしたい。ほら、最近、情報屋たちが騒いでるだろ?」


「あー仲間から聞いたな。nMORT-25のワクチン保管してるって金庫か?」


 そんな感じでやり取りを終え、タツさんの脚本通り、俺とロクは契約を結んだ。


 確かにホームレス相手なら女子高生でも気が引けない。


 よく考えたもんだよ。執念というか、妄執というか。


 ロクの印象は、その後、計画を見せてもらって変わった。


 ようやく毛の生えたガキ。


 そこは変わらない。


 だが、頭がよい。よすぎる。


 それなのに、想像力が足りていない。


 俺と同じく破滅願望でもあるのか、自己防衛故なのか。


 その両方なのか、だ。


 それに、その日は晴れていたからか、ヘルメット越しでも顔がよく見えた。


 とびきりの美形だった。


 切れ長の双眸に、ザックリ心臓を刺された気分だ。


 だが、笑わない。


 笑ったらかわいいだろうな。


 そういう印象だった。




 ロクが去った後、段ボールハウスの周囲を確認する。


 小型の盗聴器だ。


 あの年齢で「人間とは悪である」ってのを知っている。


 だが、こちとら年季が違うってもんだ。


 防音箱に盗聴器とダミー音源をぶち込む。


 これで盗聴器は無効化だ。


 騙し、騙されの騙しあい。


 それが世の中。バカなヤツだ。


 そうやって、騙されて、傷ついて、大人になっていけばいい。






「ロクの計画書だ」


 俺は例の歌舞伎町の事務所を訪れ、タツさんに計画書を渡した。


 ロクからすれば裏切り行為だろう。


 これもまたお勉強。


 タツさんはソファに深く腰掛け、書類に目を通した。


 途中、煙草の灰が落ちて、慌てて灰皿に押し付けていた。


 気持ちは分かる。計画書は読む者を熱中させる引力があった。


「……おもしろいな」


 そう、おもしろい。


 あらゆる手段でセキュリティを無効化している。


 テキストは極力少なく、絵で分かりやすく、しかし、どれもが検証済であり、現実的で説得力のある策だった。


「どうする? 俺らがこのアイディアに乗っかるか、もしくはバックアップ案にするか」


「ゴローに任せるよ」


「はぁ?」


「お前たちが一番リスクを負うんだ。ゴローの判断に任せる。それで失敗したとしても、俺は諦めない。次の機会を狙うだけだ」


 堂々の捨てゴマ宣言。


 作戦実行時は海外にいるんだろ。


 まぁ、良いんだけどさ。


 それよりどちらの計画を使うか、だ。


 タツさんの執念に乗るのも手だが、一つだけ懸念があった。


 タツさんのアイディアはドリルを持ち込み、分厚い壁に穴を開ける必要がある。


 最低でも一時間以上の時間がかかる。


 それは結構なリスクだ。


 時間帯も深夜か早朝に行うしかない。




 何が懸念なのかというと――。


 ナナナというワクチンのオーナーだ。


 こいつのワクチンの周囲では、どうにもキナ臭い事件が起こっている。


 ワクチンが頻繁に強盗団に襲われるのは理解できる。


 だが、そいつらはほぼ必ず死んでいるのだ。


 表向きは警察による射殺となっているが、その死体状況を示す資料が一切ない。


 何か隠したい事実があるはずだ。


 もし仮に、裏があるとしたら……。


 そして、その裏に、銃撃戦が含まれるのだとしたら――夜中や早朝は分が悪い。


 それだったら、五分そこらで金庫を開けるロクの計画が色々と御しやすい。


 ここ二年で信頼関係を築いた病院の同僚たちも巻き込めば……。


「……ロクの計画でいくよ」


 タツさんはゆっくり頷き、丸めた雑誌で俺の頭を叩いた。


「いたっ! どっちでもいいって言っただろ!」


「そうなんだけどよぉ」


 決行日を前に、明日、タツさんは日本を発つ。


 その前にピザを囲んでのお別れ会だ。


「俺はこの日の為に危ない橋ばかり渡ってきた」


「人類平和の為だろ?」


「動機が尊ければ、何やってもいいってか?」


「俺は結果主義でね」


 タツさんが黄ばんだ歯を見せて笑った。


「サラリーマンの頃、社長に問われたことがある。過程と結果、どっちが大事かと」


「タツさんはどう答えたんだ?」


「当時は結果って答えたさ。今のゴローと一緒だ」


「今は?」


「過程も結果もどちらも大事……そう言いたいところだが、それも違うと最近気づいた」


 興味深い返答なので、催促して掘ってみる。


 タツさんの話はいつもおもしろい。


 信頼とは、裏切りとは、そういう抽象的な話ばかりだ。


 哲学と言い換えてもいい。


 タツさんの話は程よい酒の肴だった。


「過程だよ。大事なのは生き方だけなんだ」


「……どうしてそう言える?」


「結果だと思っていたものは、いざ振り返ってみれば過程でしかない。人間、死ぬまで結果と呼べるものは一つとして訪れないんだよ。俺はいい父親じゃない。娘の価値観からすれば、俺は悪人だ。それ でも、いいんだ。俺は自分の為に決断した」


 人の意見なんてものは、基本的に自己正当化だ。


 勉強してこなかったヤツは「勉強なんてしなくていい」と言うし、悪しか生きる道がなかったヤツは「世の中、弱肉強食」と結論付ける。


 意見が先にあるのではなく、己に合わせて意見が変わるのだ。


 だが、タツさんの自己正当化は嫌いじゃない。


 きっと、自己弁護だと分かっていて吐き出しているからだ。


 その日は言葉だけじゃんく、食べた物も酒も吐くまで飲んだ。


 タツさん、飛行機には乗れたのだろうか?


 またどこかで会って飲みたいものだ。






 そんなこんなで決行日。


 俺はいつもより早起きして準備を整えると、約束の場所に向かった。


 ウイルスが蔓延してからというもの、人々はあまり外を出歩かなくなった。


 ジョギングするにしろ、犬の散歩にしろ、フルフェイスのヘルメットを被らないといけないのだから、それはそうだろう。


 俺だって偽装ホームレスになって、久々に外の空気を吸った。


 ぬるい風は心地よく、水面はまぶしく輝いている。


 五月晴れの平和な日だ。


 そんな平和な日に、俺は色濃い影を落とす橋の下に向かう。


「お・ま・た」


 ロクは大きな白ベースのスニーカーに、黒く薄手のナイロンパーカー。


 蛍光色のラインが目立つが、潜入前に白衣を羽織るからよいとするか。


 それより目立つのは、ヘルメット越しでも分かる無愛想な能面顔だ。


 相変わらず愛想の一つありゃしない。


 華奢な身体、真っ白い肌も相まって、人形のようだ。


 服装はごまかせても、このツラを誤魔化すのは一苦労しそうだ。


 そんなことを考えていると、こちらを見上げていたロクが目をそらした。


「まるで別人」


 そう言いながらイヤホンを外し、ノートパソコンをバッグに詰め込んだ。


「変装は得意でな」


 その一言で信じやがった。


 いやいや、仮に顔が似ていたとしても、毎日会う職場の人間にゃバレるだろ。


 どこまで純粋なんやら。ホームレスの時の俺のほうが変装じゃい。


 まぁ、トカゲの尻尾はこれくらいバカがいいんだけど。






 計画実行は、病院の裏口から開始する。


 速攻で同僚の一人と対面することになった。


 女性看護師の宮田さんだ。


 転職した際、最初に声をかけてくれた恩人であり、今も世話になっている。


 そんな恩人を騙している。


 まだ俺にもまともな神経が残っていたらしい。


 正気、気が気ではない。


 すぐに去ってくれと心の中で念じながら、ロクのことは姪として紹介する。


 事前に振っておいたので、特に疑われることはなかった。


 早速地下に降りて、目的の場所に向かう。


 ワクチンを保管するだけにしては、大掛かりな部屋だ。


 俺は監視カメラに入らないよう、入り口付近に立ってロクを見守る。


 ロクはノートパソコンを取り出した。


 俺はしゃがみこんだロクの後頭部を眺める。


 こうやってよく見ればホントにただのガキだ。


 だが、ガキとは思えない手さばきでキーを操作する。


「これで監視カメラはOK」


 ロクはそう言って監視カメラに手を振った。


「そんなんどこで覚えたんだよ」


「今や一般的なネットでも動画で解説していたりするよ。ま、ディープな内容はダークウェブで覚えたけど」


 そこから先はアッと言う間だ。


 タツさんの事前情報通り、ロクは鍵開けの天才だった。


 よほど鍵開けが好きなのか。


「あっ……」


 ふと、小さな声が漏れてしまう。


 ロクが笑っていたのだ。


 難関のセキュリティが次々解かれる度に、小さな口もとが綻んでいく。


 これまで仏頂面しか見れなかったからか――。


 暗闇に沈むその顔が、年相応で、とてもかわいく見えた。


 俺には子供なんていないし、いたこともない。


 何だ、かわいいところもあるんじゃん。


 何となく、タツさんの気持ちが分かった気がした。






 かちゃり――。






 時間にして四分五十二秒――鍵開けが終わる。


 しかし、そう簡単に帰らせてはくれなかった。


 ワクチンオーナー「ナナナ」がセキュリティルームに乗り出してきたのだ。


 俺は「その可能性」を事前に把握していた。


 だからこそ、罠を用意してあった。


 だが、その罠の発動前に、一つだけ聞いておく。


「どうせ俺たちハチの巣になって死ぬんだろ。最期に聞いていいか?」


「何です?」


 得意げなナナナが小さな胸を張った。


「ワクチンって何でこんな高いの? ほら、前に流行したコロナとかはワクチン大量生産してたじゃん」


 単なる好奇心だった。


 もしくは、タツさんの気持ちになりきっていたのかもしれない。


 どうしても聞いておかないといけない気がした。


「ふっ。そんなの決まっています。私しか作れないからです」


「じゃ、キミが大量生産すればいいじゃん」


 ナナナは何故か考え込み、こう返した。


「何故でしょうね?」


 考え込んだ割に、人をバカにした返答だ。


 俺は自分でも驚いた。


「お前みたいなヤツがッ!」


 気づけば怒鳴っていた。


 ひっくり返った声が最高に格好悪い。


 何故――。


 何故、俺はこんなに怒っているのか。


 自分でも分からなかった。


 このバカの影響でタツさんの娘が死んだから?


 タツさんになりきりすぎて、気持ちがシンクロしているのか?


 落ち着け俺。


 俺は正義の味方じゃないし、誰かの間違いを許さない熱い人間でもない。


 怒って、責めて、どうなる。


 俺も、この少女も、宇宙の中の小さな存在だ。


 百年経てば、今ここにいる誰もが死んでいる。


 そんな小さな存在の、自意識過剰な三文劇。


 感情的になるな。




 俺は深呼吸してその後を見守る。


 あとは事前に張っていた網を広げるだけだ。


 同僚たちによる妨害がナナナを襲うだろう。


 この数年、築いた信頼がパァになる瞬間だ。


 この場において、俺にしかできない最強の詐欺。


 罪悪感はある。


 でも、それがブレーキになることはなかった。


 生まれつきのバカ。


 俺だって、ナナナのことを怒る資格はないんだ。


 久々の長距離走に汗が吹き出し、意識が白んでいく。


 ふと、気づく。


 隣を走るロクが笑っていた。


 あまりにも嬉しそうで、だから俺も釣られて笑ってしまった。


 俺たちは事前の計画通り、下水に潜り込む。






「オッサンは復讐すんのか?」


「は?」


 臭い下水道、息を切らした俺に投げかけられた問いだ。


 つい変な声が出てしまう。


「しないしない、そんな甲斐性ないっす」


「じゃあ、何でホームレスになったんだよ? 誰かの裏をかくためじゃねーのかよ?」


 なるほど、確かにそうだ。その読みは当たっている。


 俺の設定のベース「タツさん」は、計画を練ってワクチンを強奪しようとしている。


 その計画を果たす為に情報屋の看板を掲げ続けてきた。


 でも、何だろう……タツさんは「復讐」とは言わない気もした。


「俺がホームレスになった理由? 何の意味もないよ。逃げただけだ。もうフツーにぁ戻れないと思った。それだけのことをしたからな。そもそも……俺が詐欺師になったのは……」


 口を動かしながら「しゃべりすぎだ」と思う。


 ウソがバレそうなときの俺の悪いクセだ。


 でも、きっとタツさんだって、俺以外の誰かに聞いてもらいたいはずだ。


 そう言い訳しながら記憶を反芻する。


 タツさんにはあとで謝っておこう。


「娘がウイルスにかかったんだ。そのワクチンがバカ高くてさ……詐欺に手を染めた」


「お金は……集められたんだろ?」


「娘は……よ。汚い金だって……なんとなく分かってたんだ。ワクチンを拒んだ。キミと同じくらいの歳に亡くなったよ。そのあとは逃げるだけの惨めな人生だ。ホームレスにはなるべくしてなった。で も、いや、だからこそ……」


 情緒たっぷりに言葉を区切る。


「俺は……今回のターゲットがその薬を作った張本人と知って、依頼を受けることにした。黙っていてすまない。せめて……あのワクチンが高い理由が知りたかったんだ」


 多分、タツさんの気持ちはこんなもんだ。感情移入で泣きそう。


「でも、それなら……何で……私を止めなかったんだ。ホントは犯罪なんてしたくないんだろ?」


 タツさんは何故、ロクと組んだのか。


 何故、ロクを止めなかったのか。


 自分なりに考えてみる。


「汚い金でも……キミが幸せになれるなら……俺は応援したいと思ったんだ」


 そう口にしてみるけど、違う気がしてきた。


「いや違うな……」


 あぁ、そうか、そういうことか。


「キミはあのときの俺を救ってくれたんだ。キミだったら汚い金でも喜んで受け取るだろ? 俺の渡すワクチンを……使ってくれるだろ? はは。すまない、勝手に娘と重ねて……そう俺が救われたかっただけだ。それでも本当は……」


 タツさんの気持ちがあふれてくる。


 娘のこと、ロクのこと。二人を重ね合わせて思う心が。


 それに、もしかしたら俺の感情も交じっているのかもしれない。


 俺の心なのか、タツさんの心なのか、境界が曖昧になっていく。




 何でこんなに肩入れしてしまったんだろう。


 タツさんに、ロクに――。




 こんなリスクを負うより、ただの医者として過ごしていた方が安泰だ。


 でも、それは死んだような日々だった。


 医者の仕事だって嫌いじゃない。


 むしろ続けているうちに好きになっていた。




 でも、好きになるほど思い出してしまう。


 俺は、本当は漫画家になりたかった。


 部屋でポツンと一人、消しカスにまみれた机に向かう少年。




 本とかで勉強して、始めて原稿完成させられた瞬間は今でも鮮明に覚えている。


 でも、親父にしこたま殴られて、原稿も破かれて――やめた。


 周囲には「それくらいの覚悟だったんだよ」と笑われた。


 そう、俺の覚悟なんてそんなもんだ。


 そんなだし、自暴自棄になっていたのだろう。


 親への反抗心もあったのかもしれない。


 悪友に誘われるまま、詐欺に加担した。




 でも、最近、実家に帰って気づいた。


 俺が恐れていた親父の背中は、こんなにも小さかったのか。


 親父は痴ほうが進んでいて、ついさっきの話題すら忘れていた。


 ショックはあった。


 けど、最低なことに安心もあった。


 あぁ、もう恐れる必要なんてないじゃん。


 そう思った。


 じゃあ、今から医者をやめて漫画家になれって?


 やれないさ。そんな勇気も度胸もない。


 もう、手遅れだ、と言い訳を胸に刻む。


 それが俺だ。


 ずっと負け続けの人生。


 みじめで、倒れたまま立ち上がれない。


 楽な姿勢のまま「明日やる」と言い続ける。


 何もしないほうが楽だから。




 こいつは――ロクは俺に似ているんだ。


 世界を恨むムスッとした能面顔、期待をしなくなった諦めた声。


 けだるい空気、死んだように生きるガランドウ。


 何かに負けて、悪事に手を染めて。


 こいつは覚悟があると思い込んでいる以上、俺よりたちが悪い。




 下水道――。


 ロクの綺麗な顔を思いきり殴り、しりもちついたその顔を見て思う。


 まるで地球が終わったような、唖然とした顔を見て思う。




「ささ、ナナナお嬢様。ぞんぶんに殴ってくだせぇ!」




 この先、ロクは俺みたいに後悔するのだろうか?


 そして、死んだみたいに生きるのだろうか?




 あぁ、そんなことを考えているうちに――。


 身体が勝手に動いていた。




 俺は――。


 今まさしくロクを殴ろうとするナナナの腹に――。


 豪快な蹴りを打ち込む。


 気持ちいいくらい綺麗にキマった。


 やっぱ俺、破滅願望あるのかもな。




 走馬灯が終わった。


 ようやく時間が動き出す。






 俺はナナナに馬乗りになって叫んだ。


「その結束バンドは力を入れたら千切れるようになってる! さっさと逃げろ!」


「は?」


 いくら武装していると言っても少女。


 ナナナの華奢な身体は、中年男性の下でビクとも動かない。


 ロクは――裏切りの応酬が早すぎて、何が何だか分かっていないのだろう。


 ポカンと口を開けたロクが下水に尻もちついていた。


 俺は暴れるナナナを抑え込んで再度叫ぶ。


「ハッタリってのはな、中途半端じゃいけねぇんだ! 例えば人質をナイフで脅す時はチラつかせても意味がない。まずマジで傷つける。殴る時は本気で殴る。これ、次のテスト出るからね。いや、その ……そうじゃねぇな。女の子の大事な顔を思いっきり殴ってすまない」


 トカゲの尻尾じゃなかったのかよ。


 何助けてるんだよ、バカやろう。


 心と身体が別々になったみたいだ。


 でも、もう止められない。


 突き進むしかない。


 下水に溺れそうなナナナが必死に抵抗する。


「ふ、ふざけないでください! ぶっ殺しますよ!」


 ナナナの血走った目は、見ているだけで喰われるような迫力だ。


 予備で隠し持っていたのだろう。


 サバイバルナイフが俺の腹部をかすめる。


 鋭い熱を感じた後、瞬時に頭の中がグラつく。


 信じられない量の血が噴き出して、制御不能な身体が大きくよろめく。


 ナナナが俺の肩を跳ねのけて立ち上がる。


 俺はふらつく足を叩いて、ナナナの前に立ちはだかった。


 千鳥足はまるで朝まで飲んだくれた酔っ払いだ。


「に、逃げろ、お、おぉ……早くぅううう!」


 自分でも情けない声だって思うが、その声が一層情けなくなる。


 気づくともう一撃のナイフが振るわれていた。


 ぱっくりと肩の肉が開いたのが分かる。


 痛い、痛い、痛い! 痛いぃいい!


 これまで感じたことのない鋭い痛みが脳をダイレクトに揺らす。


 目の前を光の斑点が散って、同時に外側から黒で塗りつぶされていく。


 逃げ出したい、逃げ出したい。


 今すぐ命乞いをしたい。


 無様にヨダレがこぼれて、ロクがくれたヘルメットを汚す。


 三回目の斬撃が腕を四回目が瞼を切る。


 大の字になって寝たくても、後ろにロクがいるのであれば叶わない。


 バシャリと下水を踏んでこらえる。




 そこで気づく。


 何で俺はここまで頑なになっているのか。


 こんなに意地を張っているのか。




 俺はきっと、ロクにを気に入った訳でも、タツさんの言いつけを守っている訳でもない。


 それこそ、正義の味方に憧れている訳でもない。


 俺も、この少女たちも、宇宙の中では小さな存在だ。


 百年経てば、今ここにいる誰もが死んでいる。


 そんな小さな存在の、自意識過剰な三文劇。




 それでも、それでも、それでも!


 俺は――俺は――俺は!






 自分の人生に負けたくないんだ。






 ここで逃げ出せば、もう二度とリングには上がれない。


 間違いだらけの人生だった。


 恥ばかりかいてきた。


 親不孝な大バカ者。


 戦うのを止めて、死んだように生きてきた。


 そんな俺が、生き延びて、ロクに「お前は間違っている」と伝えたい。


 せめて、一度だけでも、自分の人生を生きて良かったと思いたかった。


 カッコイイ自分でありたかった。




 はは、タツさんの好きな歌は……そういうことだったのか。


 どうりで俺は好きになれなかった訳だ。


「何笑ってるんですか? おかしくなったんですか?」


「そうかも……な」


 もう一撃、また一撃と次々と無慈悲にナイフが振り下ろされる。


「あぐっ!」


 胸を、腿を、腕を斬られて、俺の膝が折れる。


 腰が抜けているのか、ロクはまだ立ち上がれていなかった。


 意識が薄れる中、痙攣する唇を何とか動かす。


「に、げ……ろ」


 立ち上がるどころか、もう死んでいておかしくない傷だ。


 肌が焼けるように痛む。


 肺が、心臓が破裂しそうなほど跳ね回っていた。




 もうほとんど何も見えない。


 暗い。それに寒い。


 けれども、俺は、俺の残りカスで、ナナナを睨んでいた。


「しぶとい肉ですね。切り刻むのに夢中になっちゃうじゃないですか」


 ナナナが額の汗を拭い、その口元は喜びに歪む。


 どうすれば、ロクを逃がせる。


 もうあまりうまく回らない脳を酷使し、必死に言葉を紡ぐ。


「お、俺の……最後の仕事を無駄にしないでくれ。今度は……俺の言うことを聞いてくれよ……なぁ」


 背後でバシャバシャと水の跳ねる音がする。


 あぁ、よかった。


 ようやくロクが立ち上がってくれたんだ。


 心の中で俺はロクをミソクソ言ったし、計画をタツさんに漏らして裏切ったし、トカゲの尻尾にしようとしたし、挙句の果ては殴って前歯を飛ばしてしまったけれど――。


 最後の最後で帳尻は合っただろうか。


 合ってくれていたらいいなぁ。

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