医師二人に看護師二人――合計四人。
さすがに出入口一つでは抜けられない。
これで詰みなのだろうか――そう思っていたが――何だか様子がおかしい。
「ワクチン泥棒、観念しなさい」
声を発したのは、裏口ですれ違った女性の看護師だ。
私たちではなく、ナナナを「ワクチン泥棒」と呼んでいる。
「ど、どういうことですか?」
私もナナナと同じ気持ちだ。
どゆこと?
「白衣で変装しても無駄です」
看護師たちに取り囲まれたナナナは動揺していた。
その動揺を横にオッサンが一歩前に出る。
「ワクチンは僕たちが奪い返しました! あとは頼みました!」
「篠崎先生、任せてください!」
ナナナが看護師たちに抑えられている間、私たちはその横を走り抜けた。
動きを無効化する催涙ガス、取り押さえるためのロープ、チームワーク完璧だ。
何、コレ。ワケ分からねー。
私は走りながらオッサンに尋ねる。
「どういうこと?」
「俺の本懐は詐欺師。変装じゃない」
出し惜しみするオッサンに少しいら立つ。
「説明しろよ」
「俺は篠崎ってヤツになりすました。看護師の信頼も厚い医師でな」
確かに篠崎先生と呼ばれていた。
「ホンモノは?」
「今日は仕事行けないよう縛ってある。んで、これが篠崎サンのスマホ」
オッサンは私が貸したものではないスマホを取り出した。
「これで看護師たちに、ワクチン泥棒がいるってメール送ったってワケ」
「ナナナはメディアに露出していない。警戒心も強く、医院長としか顔も合わせていない……でも、それだけでチームワークよく動けるのは都合がよすぎないか?」
「ふふふ、その通り。詐欺で重要なのは前フリなのだよ」
「前フリ?」
「例えばオレオレ詐欺だってな、いきなり息子を名乗る人間から電話かかってきても引っ掛かりにくいんだよ。まず警察役の詐欺師が前フリの電話をする。その地盤があった上で、息子役から電話するから騙されるんだよ」
「……」
「所長のメールを偽装してワクチン泥棒の件について前フリをしておいた。ワクチンを狙っている怪盗団から予告状が来たってね。だから俺たちは昨晩、対策チームを組んで対ワクチン泥棒の対抗策を練って、実際の状況を想定して練習までした。勿論、俺たちがワクチンを盗む上で都合が良い形での練習だがな」
一階にたどり着いたところで、私はオッサンの足を踏む。
身振り手振りで語るエツった顔が最高にキモい。
「そういうのは、先に言え!」
「うぎゃあ! マジホンキで踏むのやめろ! 敵を欺くにはまず味方からって言うだろ?」
――助かったのは事実だが、気になることもあった。
オッサンの日常は盗聴していた。
いつもの一張羅に盗聴器を仕掛けた。
風呂以外はすべて把握しているはずだった。
シノザキに近づいたり、拘束している素振りも時間も微塵もなかった。
昨日なんて殆ど寝ていたはずだ。
まさか盗聴に気づいていたのか?
敵を欺くにはまず味方から、を実現する為にフェイクで私を騙した?
スパイの疑念は拭えないが、事実として助かっているし、そこまで考えた上での行動なら……さすが伝説の詐欺師と舌を巻くしかない。
いや、まだ油断はできない。
信じ切るにはピースが足りていない。
いずれにせよ、問いただすのは後だ。
「警察もくる。さっさとズラかろう」
私はリュックの重みを感じながら走った。
油断大敵、火が亡々。
私の胸は高揚していた。
人生最大の大仕事がようやく終わる!
完全勝利!
冷たいコンクリートの階段を駆け上り、あとは裏口から出るだけ。
私のクソったれな世界が変わる!
予定通り、マンホールを降り、地下を逃げる。
どれだけ走っただろうか。追手の気配はない。
くっさい下水も私の成功を称える芳香に思えた。
いや、んなことねぇな、くせぇ。
「いやぁ……何とか逃げれそうだね」
オッサンは額の脂汗をそででふきながら笑った。
「つか、休も! ほら、聞いて。胸の動悸が……」
余程疲れているのだろう。
私は走るのを止めた。
「チッ」
「ごめんてぇ……」
体力が回復してきたところで、世間話を振ってみる。
「オッサンは復讐すんのか?」
「は?」
肩で息をしていたオッサンが見開いた目でこちらを見て笑った。
「しないしない、そんな甲斐性ないっす」
「じゃあ、何でホームレスになったんだよ? 誰かの裏をかくためじゃねーのかよ?」
腑に落ちないことが一つだけあった。
オッサンは何故、ホームレスになったのか、だ。
海外逃亡もせず、ホームレスになったということは、誰かの目を欺く為ではないだろうか。
オッサンが裏切ったということになっているヤーさんか誰か知らないが、復讐の目的があって地盤を固めているのではないかと考えていた。
歩く速度を抑え、横目でオッサンを見る。
「俺がホームレスになった理由? 何の意味もないよ。逃げただけだ。もうフツーにぁ戻れないと思った。それだけのことをしたからな。そもそも……俺が詐欺師になったのは……」
オッサンはちらりとこちらを見てつづけた。
「娘がウイルスにかかったんだ。そのワクチンがバカ高くてさ……詐欺に手を染めた」
「お金は……集められたんだろ?」
私が調べた限り、オッサンは三憶は盗んでいる。
ワクチンを買うには十分だ。
「娘は……よ。汚い金だって……なんとなく分かってたんだ。ワクチンを拒んだ。キミと同じくらいの歳に亡くなったよ。そのあとは逃げるだけの惨めな人生だ。ホームレスにはなるべくしてなった。でも、いや、だからこそ……」
オッサンはそこで言葉を区切った。
「俺は……今回のターゲットがその薬を作った張本人と知って、依頼を受けることにした。黙っていてすまない。せめて……あのワクチンが高い理由が知りたかったんだ」
根っからの悪人ではないということだ。
「でも、それなら……何で……私を止めなかったんだ。ホントは犯罪なんてしたくないんだろ?」
「汚い金でも……キミが幸せになれるなら……俺は応援したいと思ったんだ」
そこまで吐いたオッサンが小さく息を吐いた。
「いや違うな……」
うつむいていたオッサンが、顔を上げてこちらを見る。
「キミはあのときの俺を救ってくれたんだ。キミだったら汚い金でも喜んで受け取るだろ? 俺の渡すワクチンを……使ってくれるだろ? はは。すまない、勝手に娘と重ねて……そう俺が救われたかっただけだ。それでも本当は……」
オッサンはそこまで言って頭を振った。
本当は、犯罪なんかに手を染めて欲しくない。
最後まで言い切らなくたって分かる。
周囲の大人たちが口を揃えて言ってきた言葉だ。
でも、オッサンはそれを言わなかった。
寸前で止めた。代わりに――。
「俺が言うのも何だけど……お前は……よく頑張ってるよ」
オッサンは隣を歩く私の頭をガシガシとわしづかみにした。
ナデナデのつもりだろうか?
うざくて、やたら力強いからナデナデというよりガシガシで、でも――少しだけ親父を思い出した。その手を跳ねのける前に、オッサンは口を開いた。
「そういや、お前さ。鍵開けた時、笑ってたよな」
オッサンの一言に足が止まる。
笑っていた。
自覚がない。私は笑っていたのか。
ワクチンを盗んで、奪って、笑っていた。
記憶が思い起こされ、身体が硬直した。
フツージャナイ。
そりゃそうだ。
私はサイコで、フツーじゃなくて、それでいいって結論づけたじゃん。
傷つく必要なんてないんだ……。
だが――予想に反して、オッサンのは、優しい声音だった。
「かわいかったぜ。もっと笑え。せっかくかわいいんだからさぁ」
あまりに予想と違っていて、どうでもよいことで。
私は自分でも頬が赤くなるのを感じていた。
無言で思い切り、オッサンの腹に鉄拳を加える。
「おなかがちぎれるぅうううう!」
予期せぬ発言に、気が緩んでいた。
何かが落ちる大きな物音にハッと我に返る。
ナナナだ。
ナナナがハシゴから飛び降りたのだ。
彼女は私たちの逃亡ルートを予測していた。
先回りしていたのだ。
「逃がさないですよ」
下水を跨いだ先に仁王立ちするナナナは息が荒い。
地上のルートを走ってきたのだろう。
返り血がついているので、病院の職員を殺したのかもしれない。
ヘルメットすらしていない。
その銃口は――私とオッサンに交互に向けられた。
銃を向けられるという初めての経験に、全身の毛穴が粟立つ。
殺される。そう思った。
だけど――目を開けると――。
オッサンは私の背後に回り、私の両手を結束バンドで結んでいた。
「え、何?」
「タイムタイムターイム。ほらほら、首謀者、捕まえたから。引き渡して終わりにしよ? いや、むしろ始まりがいいかもしれない」
いやいやいや。
オッサンが身を挺して私を守るとかなら分かるよ。
さっきの感動的な話とかあるしさ。
この流れで、私を売る?
ナナナが片眉を上げた。
「俺、詐欺師でさぁ。騙すのには自信あるよ? ナナナお嬢様のお力に超なれる、なれる。ローリスクで虐殺ライフを堪能しよ? ほら、今回の騒動だってトライアルって考えればなかなかだったでしょ?」
「何を……言って」
振り返った私を襲ったのは、オッサンの拳だった。
力が込められたパンチは、私の前歯を飛ばし、鼻血を噴出させた。
アスファルトの上に飛び散った赤は思いのほか彩度が高い。
「黙れよ、お前は俺が助かる為の切り札なんだよ」
オッサンは手首を振り、私のパーカーを掴むと無理やり立ち上がらせた。
さっきまでのヤサシイ告白は何だったのか。
一発で目の前の景色がゆがんだ。
本気の本気パンチだ。
マジで裏切る気だコイツ。
さっきまでのは何だったんだよ、何だったのか。
あの頭ガシガシは何だったんだよ!
私を油断させる為の用意周到な罠だったのかよ!
そういや、言っていたな。
詐欺で一番重要なのはフリだって。
ハッ。
何故か……脚がガクガクと震えた。
死ぬのが怖いんじゃない。
自分でも訳が分からないくらい――。
裏切られた事実が悲しかった。
何にも動じないと思っていた自分が、そんなことで心を折られた。
その事実が、心底笑えた。
「おじさん、話聞いてましたか? 私は正義のヒロインになりたいんです。勇者のパーティに悪党はいりません」
「じゃ、改心する。頭脳だけ使ってよぉ、ね? 手土産もあるんだからさ」
「交渉になってませんよ。あなたもその女もチェックメイトでしょう?」
交渉の余地なんざない。
だが、オッサンはこの展開も予想していたのだろう。
笑っていた。
「一気に百人、殺してみたくない?」
ナナナの目が見開いた。
「すぐに現実的なプランを練るよ、お姫様。だからね、仲間なって、お願ぁああああい」
ナナナは噴き出した。
「ナハハハハ! あなた、おもしろいですね。コミックのキャラクターみたいです。百人殺す計画……おもしろそうです。正直、飽き飽きしていたところです。ドロボーFPSには。今日の手腕を見れば、あながち絵空事でもないのでしょう。いいですよ、手始めにその女を寄こしてください。私も一発殴ってから殺したいです」
「ははー! おおせのままに!」
諦めの嘆息すら出てこない。
オッサンは向こう岸のナナナに近づく為、下水に足を入れた。
「おら、さっさと歩け」
私も下水に降りる。
くさくて濁った水。
まるで私だ。
水面に映る私の顔もきったねぇ。
「さすが伝説の詐欺師だよ」
「でしょ?」
皮肉も涼しい顔で受け流すオッサンに、何故か腹は立たなかった。
大人に期待するだけ無駄。
分かっていたのに、分かっていたはずなのに――。
少しだけ……ほんの少しだけ、期待してしまった。
だから、私の負けだ。
ジャブジャブと臭い水の上を歩きながらそう言い聞かせた。
「ささ、ナナナお嬢様。ぞんぶんに殴ってくだせぇ!」
顔を上げると目の前にナナナが立っていた。
真っ白な不健康そうな顔がオニンギョーみたいだ。
ナナナは銃を左手に持ち替え――その顔を恍惚の笑みで歪めた。
気持ち悪い顔。
私と同じ「壊れた目」だ。
あぁ、そうか、こいつも私と同じなんだ。
そして、同時に気づいてしまう。
気づきたくなった、本当の自分に――。
私は――。
怖かったんだ。
フツーになろうとして、誰かに近づいて、傷つくのが。
自分が傷つくのが怖いから、先に跳ねのけて傷つけた。
だって、そうだろう。
こいつの目は怯えている。
狂ったふりをして、恐れているんだ。
盗んで、奪って、殴って、跳ねのけるのは――。
弱い自分を見つめるのが怖いから。
フツーになりたかった。
幸せになりたかった。
愛されたかった。
誰かに見ていてもらいたかった。
オモチャの宝箱の、鍵を開けたときの音――。
かちゃり――。
親父に頭を撫でられ、私は「それ」を実感したんだ。
だから、その音を、その音だけを頼りに、ずうっと求め続けてきたんだ。
ダサくて、目を背けたくて、笑ってしまうような真実。
何で今まで気づかなかったんだろう。
でも、次の瞬間――。
私が目にしたのは、信じられない光景だった。