「海だー!」
巡洋戦艦を前に、灰色のリュックを背負ったラウダが声を上げた。三十五センチ連装砲四基を備えるその威容を前にしたから、というよりもそれが浮かんでいる青いヴェールに興奮してのものだ。
「ラウダって海見たことないんだっけ」
「ああ、先生が連れてってくれなかったんだよ」
「子供ね」
そう背後から声をかけたハービは、やたらと大きな背嚢を背負い、それと並ぶような鞄を肩に掛けていた。
「……何しに行くんだよ」
「観光よ」
「僕の護衛でもあるんだけどなあ……」
カロスから託された任務は、ルイの傍に立つこと。会談に伴って予想されるあらゆる危険に備えること。即ち、ルイが首都ソウリオを案内される際も同行するというわけだ。
「殿下、そろそろですよ」
背中を叩く、ヘクト。
「そうだね。じゃ、行こっか」
タラップを上がり、待ち構える巨体に乗り込んだ。突き抜けるような快晴だった。
◆
ソウは王都の地図と睨めっこをしていた。円形に作られた都市は三重の防壁を有し、外に行くにつれ結界による防護が弱くなる。いつか勇者が再び現れ、魔王を完全に討ち滅ぼすという願いを込めた『
そんな王都に現れた賢者の人形という存在。再生能力と灼滅の炎というセットは、最強を自負する彼にも危機感を抱かせる。黒い炎が灼いた傷は、決して癒えないのだ。
「ま、どうにでもなるか!」
声を発することで不安を掻き消す。
「何をなさっているのですか?」
親衛隊本部の最上階、六階の隅にある一室でのことだ。幾つか机の並ぶ狭い部屋ではあるが、あまり使われておらず、ソウが私的に占領している。そのためか、壁際の冷蔵庫の上段には彼の好む様々なアイスが詰め込まれている。
「一人作戦会議だよ。賢者の人形が僕くらい強かった場合、どこで戦うか考えてた」
「巻き込まないでくださいね」
「でも、カロスだって主役の一人だ。違うかい?」
問われた彼は全くの無視を行いながらアイスを一つ貰う。
「ちょっと、そのチョコアイスだけは譲れないぞ。高いんだから」
「この部屋のことを上に連絡していない分です。我慢してください」
窓から入ってくる暖かな陽光に身を任せ、蓋を開ける。
「あなたが本気を出せば、この街だって跡形もなくなる。故に、そんなことはない方がいい」
「僕なら身体強化だけで戦えるよ。そんな僕をマジにさせる奴がいるなら、ぜひ会いたいね」
仕方なくなって、ソウもアイスキャンディーを取り出した。
「ま、黒い炎だけには気を付けないといけないけど。ありゃ僕にも治せないからねえ」
治療魔術の原理は、大きく分けて二種類となる。傷口や断面と断面を繋げる魔力体を生成し、少しずつ肉体になじませる回復魔術。基本的にはこちらである。しかし、人体を的確に補完する必要がある。
もう一つは、欠損した部位そのものを魔力で作り出す再生魔術。本来肉体への深い知識が必要だが、ソウは魂を知覚することで、そこに含まれる肉体のイデアに合わせた再生──つまり、医学的見地のないままでの再生を可能としている。
「魂を焼く炎……恐ろしいものです」
そういう会話をしている内に、ソウは一つ違和感を抱く。
「横紙破りの護衛任務、ラウダくんとハービくんを遠ざけるためのものですね?」
「……どうだろうね」
魔王は黒炎によってダメージを浮けたにも拘わらず、その傷を再生させていた。奴には、何か謎がある。
「少し、考えたのです。赤輝石を完全に破壊する方法について」
「結論だけ言って」
「灼滅の炎、あれなら魂を焼き尽くせます。その力が赤輝石──魂の結晶に通用するのであれば、あるいは、と」
ガリッ、と冷たい塊を噛み砕いたソウは、どこか苦い顔をしていた。
「殿下を道具のように扱うというような言い方にはなりますが、会談などには出さず、魔王の力を制御する訓練をさせるべきだったのではないでしょうか」
「それ以上言うなら、僕は君を告発しないといけなくなる」
白い氷がなくなった棒には、『外れ』という意味の言葉。
「あなたにそのような忠誠心はないでしょう」
「弟子のためなら別だ」
「……そうやって守ろうとするのは、キカさんを喪ったことへの後悔からですか?」
彼はハズレ棒を屑籠に投げ入れる。
「キカさんの斥候としての実力を鑑みれば、あの判断は正しかったと思っています。単独行動ができるだけの実力は持っていたはずです」
「そもそもバタィーヤ戦役は、戦略的に負けていたんだ。親衛隊十五人を核とした魔法攻撃部隊で、一個師団を抑えられるわけなかった」
十年前の、苦い記憶。キカ・ジルノは、偵察任務の最中、魔導兵器部隊に包囲されて死んだ。それを噛み締めながら彼は立ち上がった。
「煙草が吸いたくなるね」
「やめたでしょうに」
「そういう気分ってことさ」
古びた扉に手をかけたその背中に、カロスが言葉を投げる。
「あの子たちは強くなりますよ」
「僕は越えられないさ」
◆
巡洋戦艦の名は、セリストラ。ヴセール教会が統治する神聖教会領を二分する巨大な河からその名は取られている。
西をヤルメスク帝国に塞がれている王国にとって、海路は極めて重要だ。大陸南東部に位置する王国から、南西部に発展した共和国へ移動するには、東に進んで隣の大陸の運河を経由するか、可能な限り南を通って帝国の支配権に入らないよう西に移動するしかないからだ。
その肚の中で、王家はコーヒーを飲んでいた。王国の紋章が刻まれた天井と、蒼い絨毯。白いテーブルの上にはフィナンシェが幾つか。
「ルイ、怪我はしていないな」
ヘーネフルド国王が重々しく問うた。
「はい」
「理不尽はないか」
「まあ、先生はいきなり明日の任務を告げたりはしますが……そういう人ですし」
「
ドロドロのコーヒーを、王は好む。そしてそれを躊躇いなく家族にも飲ませる。だが、ルイは牛乳をたっぷり入れたものが好きだった。
「陛下、艦長とのお話の時間です」
王のそばに立っていた付き人が言う。
「そうか。二人は船を見て回るといい。だが、節度を守って行動するように」
「はい」
ルイとあと一人、王太子であるベルグリーズもいた。金色の髪は整髪料で固めて後ろに流してある。
豪華な銀細工の施された扉が閉まって、数十秒。
「行くか」
「そうだね、兄さん」
重い扉を開け放ち、
「さあ、俺たちの冒険が始まる!」
そう言って国を預かるであろう彼は駆け出す。
「走ると危ないよ! 兄さん!」
ルイは早歩きで追いかけた。
「ついてく?」
扉の横で控えていたハービが、同じく警備に当たっているラウダに尋ねた。
「今の俺たちはこの部屋に入らせないことが優先事項だ。それにまあ……ルイにはマーキングを渡してある。何かあったらすぐ駆けつけるって」
「ならいいんだけど」
休めの姿勢は窮屈だ。
「……王太子殿下って、あんな明るい人なの?」
「ルイには甘いんだよ。あいつが十八だから……七つ違う。だいぶ年が離れてるのと、お后様があいつをご出産なさってすぐ薨去されたから、いつも構ってやってたって聞いた」
「失礼だけれど、威厳のない方ね」
「それ、多分気にしてるから言わないようにな」
さて、ルイたちは艦橋を訪れていた。青い空と同じ色の海を一望し、彼方には蜃気楼が見える。
「この船は、ただ今西進しております」
立派な髭を蓄えた副長が説明する。
「本艦の他に、駆逐艦四隻、重巡洋艦三隻から成る八隻の艦隊を以ての行動は、示威行動としての意味もあるのです」
「しかし、帝国海軍はそれほど規模の大きいものではないはずだ。ここまで大規模に動く意味があるのか?」
ベルグリーズが問う。
「共和国の国賓として招かれたのです、相応の格が必要ではないですか?」
「それもそうだな。艦長は父上とどのような話を?」
「機密となっていますので……」
ルイは話を聞かずに艦橋の中をうろついていた。
「王子殿下、あまり動かれますと……」
「あ、ごめん」
邪魔になる、とは言えない軍人のもどかしさを感じ取りながら、彼は兄の近くに戻った。
「この船、速力は?」
「巡航速度はおよそ二十ノットです。ソウリオまでは凡そ十二日ほどになりますね」
「長い船旅だな」
セリストラは、設計段階からお召艦になることを前提としている。そのため、艦内には王族が滞在するための部屋も存在し、また、高速性も単なる軍艦以上に重視されている。最大速力二十六ノット。同時代のどの戦艦よりも速い。
「それで、この船は実戦に堪え得るものなのか?」
「装甲面は高速性を実現するために通常の戦艦には劣ったものにはなりますが、火力で言えば帝国の主力艦と同等ですよ」
艦橋にいるのは十二名。
「俺が子供のころの観艦式じゃ、もっと人が多かった気がするな」
「魔導式航法装置と、最新鋭の魔力探知機でかなり省人化されましたから。九人いれば運航可能です」
「進んでるもんだなあ」
副長は胸ポケットから二枚の紙を取り出す。
「これを見せれば、機関室以外には立ち入ることができます」
「機関室はなんでダメなんですか?」
それを受け取ったルイが訊いた。
「機密の塊ですから。それに、色々あって仲が悪いのですよ」
機関科と兵科の間には大きな隔たりがある。ウァーウ石から魔力を取り出してエネルギーとする魔導機関は、極めて高度な技術によって開発・管理されており、その運用にも相応の知識を必要とする。言ってしまえばエリートなのだ。しかし、ポストが少ないために昇進に制限がある。
そういった諸問題故に、中々埋まらない軋轢が産まれていた。
「んじゃ、甲板見てくるかな。ルイも来いよ」
二人が前部甲板に出た時、少し波の強い海が、船を揺らしていた。その手摺に凭れる、寛衣型の前開きの服を着た、髭面の中年男性の姿。
「ニタじゃないか」
ベルグリーズが声を掛けた。
「おお、ベルグリーズ王太子殿下。どうじゃ、酒でも飲まんか」
ニタと呼ばれた彼は、腰の瓢箪を持ち上げる。
「任務中だろうが」
「わいは呑まんで生きられんのじゃ。お主もいずれわかる」
左腰には緩やかに反った湾刀が差してある。何でも、百年ほど前に王国へ併合された島国に伝わる武器だという。
「それで、あんたも護衛か?」
「ソウの代わりじゃ。ま、安心せい。酔っても刀のキレは鈍らん。むしろ、増す」
ヘラヘラと高めの声で笑うニタ。彼は、ルイの秘密を知る存在であった。