暗い夜のこと。閉め切った部屋の中で、一人の男が内臓を引きずり出されていた。猿轡を嵌められた口から悲鳴にならない音が漏れる。
「動くな。狙いがブレる」
痛みに身をくねらせるその男に、金髪碧眼の男──オが冷たく言った。彼の手には血に濡れた鋭利なナイフが握られている。
「これが、大腸」
それがブチリと引き千切られると、男はついに気を失った。
「なんだ、この程度か」
瞬時に興味を失った彼は、心臓を引き抜いて、捨てた。
「あらあら、随分楽しそうじゃない」
そう声を掛けたのは腰ほどの銀髪を誇る美女。胸元を大きく露出していた。
「ケか。後片付けを頼む」
ケと呼ばれた彼女は血溜まりに触れ、意識を集中させる。すると、それら全てが一つの球体となった。そして、それを飲み込む。
「次は誰にするの?」
「さあな。俺たちの目的はマゼクルーダの崩壊と、魔王様の覚醒を促すことだ。ルイとかいう小僧の器──いや、檻に閉じ込めたままにはさせられない」
「そのために、煽るのね?」
「ああ。彼奴が出てくるまで、何度でも殺しを続ける」
彼女はオに近づくと、一つ接吻をした。
「そういうところ、好きよ」
◆
雨が降っている。『立ち入り禁止』という意味の文字が浮かび上がった扉の前で、ルイと一人の背の高い男がシンプルな灰色の建物を見上げていた。
「ルイくん。凄惨な現場だそうです。覚悟はありますか」
低く、落ち着いた声音だった。
「はい。死体なら、見慣れてるつもりです」
男はカロス・ヴァレティエ。一級隊員だ。
「単なる死体でもないようです」
そう言いながら彼は銀色の眼鏡を上げた。赤銅色の短い髪を黒い帽子に閉じ込め、扉に展開された魔法の壁を通る。その瞬間、二人を糞尿の臭いが襲った。
「これは……内容物が撒き散らされている……?」
余りの悪臭に吐き気を催したルイだが、それは噯にも出さず、階段を上がった。二階に広がっていたのは、その想像を超える残酷な現実だった。空っぽの腹から内臓を引きずり出されて死んでいる、男の躯。逃げたくなった。
だが、カロスはそっとその横に座り込み、自分の胸の辺りにそっと円を描く。
「ヴセールよ、この魂に加護を」
「加護を」
ルイは慌てて追従した。
「恐らく死因は内臓を傷つけられたことによる失血性ショック。そして、何かしらの手段で血を消し去った」
それを聞いて、彼は床が血に濡れていないことに気づいた。
「魔術師による犯行です。それも、只者じゃない」
レンズの奥にある赤い瞳には、足跡のように魔力の痕跡が映っていた。蒼く揺らめく、見えざる炎めいたものだ。
「かなりの魔力の持ち主。漏れていたものの痕跡だけで、そこらの二級隊員を上回る魔力量です」
「えっと……」
「ルイくん。君は手を引きなさい。代わりに二級を二人、乃至一級を一人要請します」
「……僕、やります。王族として、逃げるなんてことはしたくありません」
彼は一つ、大きな溜息を吐いた。
「十八歳。成人はしている。でも、だからといって心や実力まで大人になれるわけではない。これは警告です。王族としての義務に燃える気持ちは理解できますが、君には荷が重い」
「僕だって親衛隊の──」
「四級隊員ですね」
冷たく切り捨てられて、ルイは意気消沈してしまった。
「……しかし、そうですね。現場の匂いを感じることも必要でしょう。適当な一級をつけてもらいましょうか」
そう言ってカロスは右腰の無線機から送話機を取り出して声を送る。その間、ルイは死体を眺めていた。内臓全てを引きずり出される苦痛は、想像してもし切れない。せめて意識を失っていたことを祈る。
「連絡がつきました。車で待ちましょう」
雨は本降り。だがここにいるのも気分が悪い。そういう気遣いをさせてしまったことを、彼は少し恥じた。
六人乗りの黒い四輪駆動車の中で、カロスは本を読んでいた。運転席には黒いパンツスーツを着ている、三十代程度の女が座っている。
「もし、君が斃れたなら、それは私の責任です」
頁を一枚捲りながら彼は言う。
「しかし、君が無事に生き残ったのなら、それは私ではなく君の手柄です」
「なんか……理不尽ですね」
「それを受け入れるのが大人になるということです。そして、大人というのは常に成功を要求される。失敗は若い人間の特権です」
次の頁へ。
「何読んでるんですか?」
「詩集です。はっきり言ってこの作者には才能がないですが」
「じゃあ、読むのやめればいいじゃないですか」
「稀に光るものがある。それに、批判するにも称賛するにもまずは読まねばなりません。好きではありませんが、それを判断するにはまだ時期尚早です」
優しいのか厳しいのか、イマイチ量りかねてルイは黙った。
「どんな作品も、正当に評価される権利がある。周りの言葉に流されて悪評を垂れ流す悪徳工場にはなりたくないのです」
「その評価が、辛辣なものでも?」
「駄作を駄作と言ってもらえないというのも、また悲しいものです」
そこまで言って、カロスは本を閉じた。
「さて、そろそろですね」
それと共に、彼は車から降りた。雨は止んでいた。
「ジュールさん、お疲れ様です」
深いお辞儀をする彼の前に現れたのは、一人の細身の女。左目に大きな傷がある。銀色の髪は後ろで一つに纏めてあった。
「やあ。殿下も一緒だね」
ジュール・アシュレイン。カロスやソウにとって先輩に当たる。
「遺体の状態は?」
「悲惨なものです。内臓が全て外に出ていました。魔力痕もある……確実に魔術師の犯行です」
「そりゃ怖い。キミの見立てじゃ、何級?」
「……最悪、特一級が必要になるかもしれません」
彼女は軽く笑う。
「なら、一級二人と四級一人で戦えるんじゃないかな」
「貴方はいつもそうだ。状況を楽観視しすぎる」
「ソウに手柄を取られたくないからね。手早く終わらせよう」
そう言いながら、ジュールは眼に魔力を集めていた。それによって、彼女は魔力そのものを視認できるようになる。一級ともなれば当然持っている技術であるが、ルイにはできない。
「第三城壁エリアに向かってる……小銭欲しさの悪党、ってわけでもないみたいだけど」
王都セツラカカーヤは三重の城壁によって四つのエリアに分かれている。王城が位置する中央──王族や親衛隊、貴族などが暮らす街であり、第一城壁の内側にある第一城壁エリア。そこと第二城壁の間になるのが第二城壁エリア。中流階級や専門職などが暮らしている。第三城壁との間には、労働者階級が暮らす街が広がる。城壁の外には、田園エリアが存在する。
基本的に外に行くほど文化的・経済的に貧乏になっていくと思っていい。したがって、第三城壁エリアには犯罪に手を染めた者たちが跳梁跋扈している。
「第三エリアとなると……親衛隊も全貌が把握できてないんだよね。だから、かなり面倒になる」
「三番隊が治安維持に動いてるはずじゃ……」
「百人ぽっちの部隊で? 指揮を執ってるだけだよ」
ジュールは大きく伸びをする。
「そんじゃ、行きますか。殿下は怪我しないようにね」
黒いバンは城壁の門へ向かう。三人の戦士を乗せて。
◆
ヘクトは王都を離れ、ヴセール教会の領地──神聖教会領の首都、ニーチャに戻っていた。その北の端に聳える高い塔の最上階で、彼は跪いている。
「つまり、魔王は制御可能であると?」
彼を囲む、布で顔を隠した人間たち。十五人だ。性別も年齢もはっきりしない。
「はい。ルイ・リリカス・ゲースヒャガニは、魔王を抑え込んでいます」
暫しの沈黙。
「監視はされているのだろうな」
「ソウ・ブルガザルが同行する人間に視界を共有させ、常に監視しております。有事の際には、彼が手を下すかと」
「ならばよい。万が一魔王が再誕した場合、世界は二千年前まで逆戻りしてしまう。あの暗黒の時代が再来してはならんのだ」
知りもしない癖に、と彼は内心毒づいた。
「汝も備えよ。蒼き神聖なる炎で魔を焼いてしまうのだ」
「御意に……」
強く、膝の上で拳を握り締める。ハービは、彼の弟子だ。それをソウに預けたのは、教会からの横槍を避けるため。然るに、彼は今、その教え子の友人を手にかける話をしている。事実が痛い。
「汝、今の魔王が復活したとして、ソウ・ブルガザルと組めば討伐できるな?」
「恐らく、魔王自身の魂の覚醒は途上にあります。加えて、王国には相当な数の教会魔術師がいます。故に、二千年前の魔王戦役のようにはならないかと」
衣擦れの音が聞こえてくる。教会魔術師とは、蒼い炎を使うために必要な『ヴセールの洗礼』を受けながらも、身体強化の出力不足や、女性であることを理由に教会騎士にはなれない者、もしくはその訓練を受けていない者のことである。
「一つ、提案なのだが」
何重にも響いた後のような、正体の掴めない声がする。
「勇者様の遺体をルイ・リリカス・ゲースヒャガニに取り込ませるのはどうだろう。心臓は我々が管理している故、いつでも実行できる」
「心臓を? 馬鹿を言え、あれがあるから我々は影響力を保てているのだぞ」
顔の見えない者同士の口論が起こる。
「失礼いたします」
耐えきれなくなって、ヘクトはその場から消えた。