冬の夜闇を駆ける、裸の女の姿。異常に細い手足は病的なまでに白く、左目にはオレンジの硝子で作られたモノクルがある。
「やった、やったぞ……!」
彼女は胸に何やら布で覆われたものを抱えていた。
「手に入れた、第一の心臓……!」
かつて存在したという、魔王。その亡骸が今、盗み出された。
「魔王様よ、あなたの復活は、近い!」
その女が行方を晦ませてから二カ月が過ぎ、春が訪れた。
◆
「──ルイ、ルイ!」
安楽椅子の上、ルイと呼ばれた金髪金眼の少年は目を覚ます。黒を基調に所々赤いラインの入った制服を着て、傍らには剣が置かれている。右腿のホルスターには、自動拳銃。
「まだ昼だぜ」
声の主、ラウダは溜息を一つ吐いた後、剪定に戻った。
「それにしても、いい天気だねえ」
馥郁の庭園から見える硝子越しの四角いキャンバスに、真っ青な絵の具が塗りたくられている。時折入る白も、群青を際立たせていた。パチン、パサッという音を聞きながら、ルイはそんな空を眺めていた。
肩に小鳥が止まる。撫でれば、飛び立った。穏やかな一日だ。どろんとした心地よい微睡が再び彼を襲う。
「ところでよ」
と、ラウダ。彼もまた、ルイと同じ格好、同じ装備をしていた。違いは、髪と目の色。彼は黒髪に黒眼だった。
「王都の外れに使われなくなった研究所があるのは知ってるだろ? あそこに出入りする奴がいるって聞いたんだよ」
「……それで?」
興味がルイを目覚めさせる。
「見に行かねえか」
十八歳の二人は目を合わせる。好奇心。冒険心。そういうものが盛って仕方のない年頃だった。
「とはいえ、僕もこれ以上怒られたくないな。どう抜け出す?」
「怒られねえぜ。これは任務だからな」
「へえ」
ルイは体を起こし、椅子から降りる。
「先生の指示?」
「おうよ。卒業試験だってよ」
卒業。二人は親衛隊の候補生である。そこから脱し、晴れて親衛隊のマントと銀時計を貰うには、何かしらの任務を受けることで実力を示さねばならない。その機会がやってきたのだ。
「最高。今すぐ行こうよ」
「そう言うと思ったぜ。んじゃ、ヘクトさんに連絡しとくぜ」
ラウダは腰にかけた無線機からマイクを取り出し、声を吹き込む。その間、ルイの方は自分の服装を点検していた。四つのボタンはしっかりと留められ、ズボンのチャックも上まで閉まっている。
「よし、行くぞ」
二人は庭を走る。薔薇のトンネルを抜ける。花に水をやる女の後ろを通り過ぎる。甘い香りが鼻を擽る。そうして、庭の片隅にぽつんと置かれた庭師の休憩室に行き着く。
その白い壁に建てつけてある灰色の扉を押せば、パイプをくゆらせる壮年の男がいた。
「ルイ王子、またお出かけですかな?」
男は口の方端を上げて問う。
「今回はお使いだよ。ちょっと先生に頼まれて」
「ラウダ、王子をお守りするんだぞ」
「へいへい。おっさんも腰大事にな」
二人は床にある鉄扉を持ち上げ、梯子を下る。
「全く、若いってのはいいねえ」
そんなボヤキが聞こえてくる前に、彼らは地下に潜っていた。
そこは、万が一王宮が包囲された際の脱出路として用意された、地下道だ。赤い魔導灯がぼんやりと照らす中を進む。半長靴の硬い地面を叩く音が反響していた。
「帰る時に菓子屋寄ろうぜ。いいクッキー焼く店見つけたんだよ」
「いいじゃん。
「そこ比べるとこじゃねえだろ」
一つ角を曲がる。
「術の修業はどうだ?」
「炎は完璧。蒼い炎はイマイチだけど。そっちは? 雷って制御難しいって聞くよ」
「ま、俺にかかれば余裕だな。上級魔術だって習得してやるぜ」
時間にして一時間ほど。王都の中心部から離れた辺りで地上に出る。そこは無人の家屋だった。居間の端に作られた穴から這い出て、指の感触を頼りに魔導灯のスイッチを押すと、そこには蒼い服に身を包んだ若い男が何も言わずに椅子に座っていた。
「やあ」
男の左腰には剣が下げられていた。
「ヘクトさん、いつだって行けるぜ」
ラウダは左腕に作った力こぶを叩いてみせる。
「よし、急ぐぞ。動きを気取られる前に突入だ」
ヘクトは少年二人と比べて、圧倒的な筋肉をその身に持っていた。分厚い胸板と広い肩幅に、簡素な服は張り裂けんばかりに膨らんでいる。そんな彼は進んで扉を開いた。
彼らを待ち構えていたのは、舗装されていない道路だった。第三城壁エリア。宮廷を守る三つの城壁の内、最も外側にあるエリアだ。
肺を満たす空気でさえ暗澹としている、生気のない街。地上を焼き尽くすような日光の下、安酒を呷りながら歩く禿げ頭の眼に力はない。
だが、それは当たり前のことだった。座り込んだ売春婦も、金をくれという意味の文句を書いた札をぶら下げる乞食も。ここはゴミ捨て場なのだ。輝かしき栄光に見合わぬものを投棄する、大きすぎるゴミ捨て場。泥濘の棺とも言える。
少しぬかるんだ地面が、彼らの足に泥を飛ばす。春の日差しの中で、ヘクトは唐突に通りかかった少女の腕を捻り上げる。
「君、あろうことか王子の目の前でスリを働くのか」
彼が掴んだその手首の先には、革でできた財布が握られていた。
「いいよ、そういうの──」
「教会に行きなさい。こんなことをしなくとも生きていける」
太い指で財布をもぎ取り、しゃがんで視線を合わせる。
「いいかい? 一度犯罪の旨味を知ると戻れなくなってしまう。だがね、それは人間として歪んだ状態なんだ。しっかり真面目に働いて稼がなければ、君の魂は穢れてしまう。そうなれば、神の輪廻に戻った時に魂を焼かれ、言い表せない苦痛を味わうことになってしまうよ」
「何が、何が穢れる、だ。何が神だ、そんなものがいるなら母さんは死ななかった!」
ヘクトは突然涙を流し、彼女を抱きしめた。
「神を知らないのだね。教会に行きなさい。君は、まだ幸福になれる」
離れた彼は、次いでこう言った。
「今の私には時間がない。またいつか、運命が巡り合わせてくれることを祈っているよ」
それから、三人は再び歩き出す。
「流石、教会騎士って感じだな」
ラウダが親友に耳打ちした。
「うん、いきなり泣くのはびっくりするけど」
街並みに命はない。老朽化した木造建築が並び、今にも崩れそうだ。古びた集合住宅から出てきた女が、陰鬱な顔で扉を閉めている。それを通り過ぎて、二十分。この国がかつて闇に覆われていた時代の遺物が、目に入る。
旧第壱魔術研究所。そそり立つコンクリートの防壁の間に、鉄のフェンスが置かれている。その接合部には、断ち切られた鎖がぶら下がっていた。
「誰かが入った形跡があるね」
ヘクトはじっとその鎖の破片を見つめていた。
「魔術の痕跡がある……予想外だな。この任務、まずいかもしれない」
「まずいって、何が?」
ラウダの一言に、ルイが返す。
「相手に魔術師がいる、ってこと?」
「魔導具を持っているだけかもしれませんが、少なくとも何らかの魔術的な手段を有していることは確実です。ソウのことです、知った上でやらせているのかもしれませんが……」
「ま、ヘクトさんがいりゃどうにでもなるっしょ。行こうぜ、お宝見つかるかもしれねえ」
ずんずんと進んでいくラウダに、二人は苦笑いしながら付いて行った。
建物の入口は、硝子戸だった。既に魔力供給は途絶えて久しく、灯の一つも見えはしない。そのドアノブをそっと撫ぜたヘクトは、顎に指を当てて考え込んだ。
「やはり、魔力の残滓があります。王子、私の傍から離れないでください」
「おいおい、俺は?」
「君もだ。これは、ソウが考える以上に危険な任務かもしれない」
彼が手を叩くと、瞬時に蒼い鎧が彼を包み、左手に赤い龍が聖杯を掲げている紋章のついたカイトシールドが現れた。教会騎士。大陸全土に影響力を持つヴセール教会が擁する騎士団の一員なのだ。
「さあ、突入です」
静かな研究所に入れば、鎧の擦れる音が嫌に反響した。
「ラウダ、ハンドライトを」
その指示に従い、呼ばれた彼は左腰にぶら下げていたライトを光らせる。それに照らされた鼠が物陰に逃げ込んだ。そして、階段が現れる。
「上か、下か。王子、どうされますか?」
「下に行こう。多分、何かを隠すなら地下だ」
「御意」
階段を一段下った三人は、言葉では言い表せない邪気のようなものを鋭敏に感じ取る。進めば引き返せない。そういうメッセージを発するようなものだった。
「……引き返しましょう。後日、調査隊を編成して──」
そう言ってヘクトが振り向いた瞬間、ルイが黒い腕に引きずり込まれ、闇の中に消える。
「ヘクトさん!」
その叫びに応じて、彼もまた闇に飛び込んだ。
階下に蔓延っていたのは、異形の化け物たち。魔物と呼ばれる、魔力を持った動物だ。ヘクトは剣を抜き、襲い掛かって来る魔物を片っ端から斬り伏せる。ラウダも拳銃で援護しつつ、進んでいた。
十五分ほどそうやって少しずつ前に歩んでいただろか。暗い道の奥から炎の矢が飛んでくる。ヘクトが少年の前に立ち、盾でそれを受け止める。
「ラウダ! 下がるんだ!」
暗闇から飛び出す、人間一人分はあろうかという口。盾で牙を受け止め、
「
と右手の剣に蒼い炎を纏わせる。比類なき膂力で相手を押し返した彼は、刃を振り抜く。炎が飛び、大蛇のような魔物を完全に焼き尽くした。
「す、すげえ……」
ラウダが声を漏らす。
「行こう、急がなければ……」
「つまらんな」
冷たい声が、蒼い炎に照らされる道に響く。
「だが、お前は面白い。来い、教会騎士」
「ルイ……?」
「ルイ? ああ、
現れたのは、金髪金眼の少年。しかし、邪悪なオーラを放つその姿がとても親友のそれに思えず、ラウダの言葉は疑問形になった。
「黒髪の餓鬼、帰れ。一対一で勝負がしたい」
異様な雰囲気。ヘクトも唾を呑んだ。
「ラウダ。彼の言う通りだ。君は地上に出て救援を呼んでくれ」
「ヘクトさんは?」
「彼を……弑する」