霧が徐々に晴れていく中、一行は目指す建物へと向かって足を進めていた。その建物は先ほどの広場よりさらに大きく、不気味なほど静寂に包まれている。石造りの壁には時間の痕跡が刻まれ、苔むした模様が複雑に絡み合っていた。
ちはるは足元の小石を蹴りながら、重くなり始めた空気に気を取られていた。頭の中で先ほどの影の言葉がまだ反響している。
「大丈夫か?」
不意に千景の声が背後から聞こえ、ちはるは顔を上げた。彼の顔には普段通りの冷静な表情が浮かんでいたが、その目にはほんのわずかな気遣いが宿っていた。
「うん、大丈夫……ちょっと考え事してただけ」
ちはるが短く答えると、千景は少しだけ目を細めた。
「影のことか?」
「……そう。でも、もう平気。自分で乗り越えなきゃいけないことだから」
ちはるの言葉に、千景はしばらく黙って彼女を見つめていた。
「お前は強い。それだけは認める」
その一言にちはるは驚いて千景を見上げた。彼が人を褒めることは滅多にない。
「え……?」
「だが、それを忘れるな。影に打ち勝ったのは、お前自身の強さだ。誰かの助けではない」
千景の言葉に、ちはるの胸がじんと熱くなる。彼の不器用な励ましが、彼女にとって何よりも重みのあるものだった。
「ありがとう、千景」
ちはるが小さく微笑むと、彼は何も言わずに前を向いた。その横顔には、彼自身もどこか安心したような色が浮かんでいた。
「おいおい、二人だけで話してると仲間外れにされる気分だな」
杉太が後ろから声をかけ、軽く肩をすくめる。その声にちはるが振り返ると、彼の顔にはいつもの軽口を叩く笑みが浮かんでいた。
「そんなことないよ。ただ、千景が……少しだけ励ましてくれたの」
ちはるが言うと、杉太は大げさに目を見開いた。
「おっと、それは珍しいな。千景がそんな人間的なことをするなんてな」
彼の冗談に、ちはるが思わずくすりと笑う。そのやり取りを聞いていた綺羅羅が少しだけ首を傾げた。
「珍しいというか……意外とちはるには甘いのよ、千景って」
彼女の言葉に杉太が吹き出す。
「そりゃあ、そうだ。千景の冷たい態度も、ちはるには効き目がないからな」
「どういう意味?」
ちはるが首を傾げると、杉太は肩をすくめた。
「お前が真っ直ぐだからだよ。千景みたいに鋭い奴に、正面から向かっていけるのはお前くらいだ」
その言葉にちはるは少しだけ赤くなり、そっぽを向いた。
「そ、そんなことないよ……」
「いや、本当にそうだと思うわ」
綺羅羅が続ける。彼女の目には柔らかな光が宿っている。
「ちはるのそういうところが、私たちをここまで連れてきてくれたのかもね」
その言葉に、ちはるは思わず目を見開いた。
「私が……?」
「そう。少なくとも、あなたがいたからみんなバラバラにならずに済んでるのは確かよ」
綺羅羅の言葉にちはるの胸が温かくなる。それを見ていた杉太が小さく笑った。
「だからこそ、もっと自信を持てよな。お前は十分頼りになるんだから」
その軽い口調が、ちはるには不思議と心地よかった。
やがて、一行は建物の入口に到着した。巨大な扉が目の前に立ちはだかり、その表面には複雑な紋様が彫り込まれている。
「これが……次の場所か」
聖光が静かに呟く。その声には、これから待ち受けるものへの警戒が込められていた。
「開けるぞ。全員、備えろ」
千景が短く指示を出す。その声に、全員が緊張を高めた。
ちはるもまた、胸の中で自分を奮い立たせるように息を吸い込んだ。どんな試練が待っていようとも、仲間と共に乗り越える――そう信じて。
千景が扉に手をかけ、ゆっくりと押し開く音が静寂を裂いた。重い扉の奥から現れたのは、無限に続くように思える階段だった。そこに漂う空気は、これまでよりもさらに冷たく、彼らを引き返させようとするような重圧があった。
「ここから先は、もう後戻りはできないわね」
綺羅羅が低く呟く。その言葉に全員が頷き、互いに短く視線を交わした。
「行こう」
ちはるの短い言葉が空気を動かし、一行は再び足を進め始めた。次の試練が彼らを待っている。