建物の中は暗闇に支配され、唯一の光源は不規則に明滅する灯火だけだった。その揺らめきが壁に影を作り、まるで生きているかのように蠢いている。その中を歩く彼らの足音は、冷たい石の床に反響して耳に不快な振動をもたらしていた。
ちはるは前を行く千景の背中を見つめながら、胸のざわめきを抑え込もうとしていた。建物の中に漂う空気は湿っぽく、呼吸をするたびに喉に重さが残るようだった。
「本当にここで何かが起こるのかな……」
彼女の小さな呟きは、ほとんど自分自身に向けられたものだった。しかし、それを聞き取った杉太が振り返りながら軽く笑った。
「起こるさ、きっとな。こんな気味悪い場所で何もなかったら、それはそれで怖いだろ?」
冗談交じりの言葉だったが、その目にはいつもの軽さとは違う鋭さが宿っている。
「怖いのは変わらないよ……でも、今は一緒にいるから平気」
ちはるの言葉に杉太は少しだけ目を丸くし、すぐに照れたように頭を掻いた。
「そりゃどうも。まあ、俺がいれば安心ってやつか?」
「……そういうわけじゃないけど」
ちはるが少し笑いながら答える。その小さなやり取りに後ろを歩いていた綺羅羅が口を挟む。
「ちはる、杉太ってそういう調子だからあんまり甘やかさない方がいいわよ?」
彼女の声には冗談めいた軽さがあったが、その目はちらりと杉太を見ていた。
「おいおい、何だよその言い草。俺はちゃんと役に立ってるだろ?」
杉太が少しふくれっ面を見せると、綺羅羅は小さく笑った。
「役に立つのはいいことよ。ただし、自分が思ってるほど信用されてるとは思わない方がいいわ」
「おいおい、さっきちはるに褒められたばかりだぞ。それを台無しにするなよ」
杉太が肩をすくめながら笑うと、ちはるもつられて笑みを浮かべた。その小さな笑い声が重たい空気を少しだけ軽くした。
「静かにしろ」
千景の低い声が後ろから飛んだ。その声には鋭い警戒心が込められていて、全員が思わず息を飲んだ。
「……何かいるの?」
ちはるが不安げに問いかけると、千景は静かに頷いた。その目は暗闇の奥に固定されている。
「感じる。ここには、俺たちを見ている何かがいる」
その言葉に綺羅羅が眉をひそめた。
「それって、ただの気配? それとも明確な敵?」
「どちらとも言えない。ただ、油断はできない」
千景の声には緊張が張り詰めていた。彼が前に一歩進むと、灯火が少しだけその光を強め、薄暗い空間をぼんやりと照らした。
その瞬間、暗闇の中から低い唸り声が響いた。それは地の底から這い上がるような音で、全員の背筋を凍らせる。
「何だ、今の音……!」
杉太が目を見開きながら声を上げる。その声に応じるように、暗闇がわずかに動いた。
ちはるは思わず綺羅羅の手を掴んだ。彼女の手が微かに震えているのを感じる。
「大丈夫、ちはる。落ち着いて」
綺羅羅が静かに声をかけるが、その言葉にも隠しきれない不安が滲んでいた。
「前から……何か来る!」
聖光が短く叫ぶ。その視線の先、暗闇の奥から一つの影がゆっくりと姿を現し始めた。
それは、目に見える形を持っていながら、どこか現実感が欠けていた。人間の形をしているようで、その輪郭はゆらゆらと揺れ、顔はぼやけていて判然としない。
「……誰かがいるの?」
ちはるが勇気を振り絞って問いかける。しかし、影は何も言わずにただそこに立っている。
「答えるつもりはなさそうだな……」
千景が静かに言い、目を細めて影を睨みつける。その態度に影が反応したのか、揺らめきが激しくなる。
「どうするの、千景?」
ちはるが不安げに問いかけると、千景は短く答えた。
「まずは冷静に動きを見る。それが敵か味方か、それすらわからないうちは動かない方がいい」
その言葉に全員が緊張を強めた。灯火が再び揺らぎ、影が一歩前に進んだ。その瞬間、全員の心臓が一気に跳ね上がる。
ちはるは恐怖で息を詰まらせながらも、影の奥にある何かを見極めようとしていた。だが、その正体は依然として謎のままだった。
「……あなたは、ここで何をしているの?」
ちはるが震える声で再び問いかけた。すると、影がわずかに揺れ、低い声を発した。
「……お前たちを……試す……」
その言葉に全員が凍りついた。影の中に潜む意志が、これまでの試練を超える新たな困難を予感させていた。