ちはるは影と向き合いながら、胸の中で渦巻く感情を抑えようとしていた。目の前の「自分」はまるで生きた存在のように動き、冷たい目で彼女を見つめている。その視線には責めるような冷たさがあり、ちはるの心を鋭くえぐった。
「お前は一人で何かを成し遂げたことなんてない」
影の声は冷たく、乾いていた。その言葉はちはるの中に埋もれていた不安を次々と掘り起こしていく。
「誰かの助けを借りなければ何もできないくせに、どうしてここにいるの?」
その問いに、ちはるは何も答えられなかった。心の奥に眠る孤独な記憶が、影の言葉を強く裏付けているように思えたからだ。
「ちはる!」
不意に千景の声が飛んだ。その短い言葉は鋭く、彼女の心を切り裂くようだったが、それが返って彼女の足元を支えた。
「お前が今ここにいるのは、そうやって弱さを抱えながらも進んできたからだ! 影の言葉に惑わされるな!」
千景の言葉には普段の冷静さ以上に熱が込められていた。それが、ちはるの揺れる心を一瞬だけ引き戻した。
「でも……私、本当に何かを変えられるの?」
ちはるが絞り出すように問いかける。その言葉は自分自身への問いでもあった。
「変えるんだよ。お前がそうしようと決めた時から、変わり始めてるんだ」
千景は少しだけ声を落とし、真っ直ぐにちはるを見つめながら言った。その眼差しは、どんな状況でも揺るがない強さを持っていた。
ちはるはその視線を感じながら、深く息を吸った。そして、目の前の影を睨み返した。
「確かに私は弱い。頼ってばかりだった。でも、だからって立ち止まっていい理由にはならない!」
影の表情が一瞬だけ揺らぐ。それは、彼女が自分の言葉を信じ始めた証のように見えた。
「私はもう逃げない!」
ちはるの叫びが霧の中に響いた瞬間、影が音もなく崩れ始めた。まるで霧の一部に溶け込むように、ゆっくりと形を失っていく。
「やったな」
杉太が後ろから声をかけた。その言葉にはいつもの軽さが戻っていたが、その表情はどこか誇らしげだった。
「杉太……ありがとう」
ちはるが振り返って小さく笑うと、杉太は少し照れたように頭を掻いた。
「まあ、俺もそろそろ自分の影と向き合ってみるよ。逃げるなってお前が証明してくれたしな」
その言葉にちはるの胸が温かくなった。
一方、綺羅羅は自身の影と向き合っていた。彼女の影は冷たい瞳で彼女を見下ろしながら、低い声で囁く。
「あなたが理想を追い求めるのは、自分の本当の姿を隠したいからでしょ?」
その言葉に、綺羅羅の手がわずかに震える。
「違う……そんなことない」
彼女の声は弱々しかったが、その瞳には確かな光が宿っていた。
「私が理想を追い求めるのは、もっと自分を好きになるためよ。それが間違っているとは思わない!」
その言葉とともに、綺羅羅の影もまた霧に溶けるように消えていった。
全員がそれぞれの影と向き合い始める中、ちはるはふと千景の方を見た。彼もまた、自分の影と向き合っていた。
「お前はいつも自分の正しさを押し付けるだけだ」
千景の影は冷たく低い声でそう告げていた。その言葉に、千景は眉をひそめる。
「そうしなければ、誰もまとまらないからだ」
「それがただの言い訳だとは思わないのか?」
影の問いに、千景は短く息を吐いた。そして、静かに答えた。
「思ったこともあるさ。でも、それでも前に進むためには誰かがそうしなければならない。俺がその役割を果たす」
その言葉に影がふっと微笑んだかのように見えた。そして、彼の影もまた静かに霧の中に消えていった。
「千景……」
ちはるが彼を見つめる。その眼差しには、彼への新たな理解が宿っていた。
全員が影を乗り越え、霧の中に再び静寂が戻る。灯火の光が一層強まり、彼らの前方を照らし始めた。
「次に進む時が来たみたいだな」
杉太が口元に笑みを浮かべながら言った。その言葉に全員が頷き、足を進める。
霧の奥には、新たな道と試練が待ち構えている――だが、彼らは互いの絆を確かめ合いながら、前に進む準備が整っていた。