霧の中、千景の背中は少しずつ影に近づいていった。灯火の揺らめきは激しさを増し、その不規則な動きが見る者の神経を逆撫でするようだった。ちはるはその背中に向かって声を掛けたい衝動を抑え込む。彼が振り返ることなく進む姿が、妙に遠い存在のように感じられていた。
「……千景、無理しないで……」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。それが届くわけもないとわかっているのに、ちはるはその言葉を胸に押し込むことができなかった。
「おい、ちはる」
杉太の声が後ろからかかった。彼もまた、千景をじっと見つめている。いつもの軽薄な笑みはそこにはなく、代わりに彼らしい真剣な眼差しが浮かんでいた。
「アイツ、ちゃんとやるよ。俺より堅物だし、こんな状況でも冷静にやるタイプだろうさ」
彼の言葉には安堵を促す意図があったが、それでもちはるの不安は消えなかった。
「そういうことじゃないの……」
ちはるは視線を足元に落としながら答える。その小さな声を杉太は聞き逃さなかった。
「何だよ、どういうことだ?」
「……千景、たまに無理をするのよ。自分が何とかしなきゃって、全部背負い込んじゃう」
ちはるの言葉は震えていた。杉太はそれに気づいて少し間を置いてから、静かにため息をついた。
「そっか。そりゃ、アイツらしいな」
杉太がポツリと言う。その言葉には少しばかりの親近感と、無力感が滲んでいた。
千景が影のすぐ手前で立ち止まった。彼は灯火の激しい揺らめきに目を凝らし、影の中で蠢く何かを見定めようとしている。その姿は頼もしく見える反面、何かに呑まれてしまいそうな危うさを感じさせた。
「千景!」
ちはるがついに叫ぶ。彼女の声は霧に飲み込まれながらも、確かに彼の背中に届いた。その背中が一瞬だけ揺れ、彼が振り返る。
「何だ?」
彼の声は冷静を保っていたが、その目には一瞬だけ動揺が浮かんだ。それを見たちはるは、一歩踏み出した。
「無理しないで……何かあったら、ちゃんと戻ってきて!」
その言葉は震えていたが、彼女の心からの願いだった。
千景は一瞬だけ彼女を見つめた後、短く頷いた。その小さな動きが、ちはるにとってどれほどの救いだったか、彼には想像もつかなかった。
「気をつける」
それだけ言うと、彼は再び影の方へ向き直った。その背中が灯火の明かりに照らされ、細い輪郭を浮かび上がらせる。
綺羅羅がその場で膝をついていた。彼女の顔は蒼白で、息を荒げながらも周囲の状況をしっかりと見つめている。千景が彼女のそばにしゃがみ込むと、彼女は小さく笑った。
「あなた、こういう時も冷たい顔をしてるのね」
綺羅羅の声は弱々しかったが、その言葉にはどこか安心感が含まれていた。
「余計なことを言うな。無事でよかった」
千景の声は短いが、その奥に隠された感情を綺羅羅は感じ取った。
「私が無事かどうかは、まだわからないわよ。でも……ありがとう」
綺羅羅はそう言いながら、手を千景に伸ばした。その手を取る千景の動きは慎重で、まるで彼女が崩れてしまうのではないかと心配しているかのようだった。
影が再び動き始めた。千景が立ち上がり、綺羅羅を支えながら影に向かって身構える。ちはるはその姿を見つめながら、胸の中の不安がまた膨らむのを感じた。
「どうしてこんな時に、私は……何もできないの?」
自分を責める気持ちが彼女の心を重くしていく。その時、杉太が彼女の肩に手を置いた。
「おい、ちはる」
彼の声にはいつもの軽さが戻っていた。それがかえって彼女を安心させた。
「お前が何もしてないなんてこと、ないだろ。お前の声があったから、あいつは戻るって約束したんだ」
杉太の言葉は真っ直ぐだった。その真摯な眼差しが、ちはるの心に少しだけ光を灯した。
「……私の声が、届いたのかな?」
ちはるがつぶやくように言うと、杉太は笑った。
「届いたさ。アイツ、意外と人の言葉を気にするんだよ」
彼の言葉に、ちはるはほんの少しだけ笑顔を見せた。
千景と綺羅羅が影から少しずつ距離を取る。それを見守る全員の視線が、霧の中で絡み合いながら、一つの希望に繋がろうとしていた。