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第8章: 声が交錯する場所

霧の静寂が戻ったと感じた瞬間、ちはるは自分の鼓動がやけに大きく響くのを感じた。その鼓動さえ、霧に飲み込まれてしまいそうな空間だった。揺れる灯火は影の中心に戻り、再び不気味な動きを始める。その動きは今まで以上に鮮明で、まるで意志を持っているようだった。

「ちはる!」

綺羅羅の叫び声が聞こえた。彼女の言葉には警告と焦りが入り混じっていた。影が今にも覆いかぶさりそうなその姿は、すぐそばにいる彼女を飲み込もうとしているかのように見えた。

「綺羅羅!」

ちはるが駆け出そうとした瞬間、千景の腕がまた彼女を掴んだ。その握力は彼の苛立ちを如実に表している。

「動くな!」

彼の声は鋭く、容赦がない。しかし、その中に震えるような何かをちはるは感じ取った。

「離して、千景! 綺羅羅と聖光が――」

「冷静になれ! お前が飛び込んだところで状況が良くなる保証なんてない!」

千景の声は低く抑えられていたが、そこには焦燥が垣間見えた。その彼を横目に見て、杉太が不敵に笑いながら口を開く。

「相変わらず冷たいやつだな、千景。こういう時、少しは感情を見せたらどうだ?」

その言葉に、千景の目が一瞬鋭さを増した。

「感情で動いて状況を悪化させる方が愚かだろう」

彼は杉太に冷たく言い放った。だが、その言葉が届く前に杉太が一歩前に出る。

「まあ、愚かでもなんでもいいさ。俺がやるよ」

杉太の声には軽さがあったが、その足取りには迷いがなかった。ちはるが驚いた表情で彼を見つめると、彼は振り返らずに言葉を続けた。

「俺が様子を見てくる。あんたらは後ろで構えててくれ」

「杉太……」

ちはるはその背中を見つめながら、止めるべきか否か迷っていた。だが、その間にも杉太は影と灯火に近づいていく。

「おい、勝手な真似を――!」

千景が声を上げたが、それは途中で途切れた。霧の中から新たな声が響いてきたからだ。

「……助けて……」

それはか細いが明確な声だった。影の奥から、誰かが呻くように叫んでいる。その声にちはるは息を飲んだ。

「誰かがいる……本当に人がいるの?」

ちはるの問いに、誰も答えなかった。ただ全員が、影の向こうにいる何者かの存在を感じ取っていた。

「そいつが敵ならどうする?」

千景の低い声が場を冷やすように響いた。杉太が肩越しに振り返り、軽く笑った。

「敵かもしれないし、味方かもしれない。それは行ってみないとわからないだろ?」

その言葉を最後に、杉太は影へと足を進めた。灯火の揺れがますます激しくなり、影の動きがそれに合わせて不規則に変わる。

ちはるは耐えきれず叫んだ。

「杉太! 無理しないで戻ってきて!」

その声に杉太は振り返り、片手を挙げて笑顔を見せた。

「大丈夫。俺が何とかする」

その言葉が、ちはるの胸を締め付けた。その笑顔が、どこか最後の言葉のように見えてしまったからだ。

影の中心で、灯火が一瞬激しく明滅した。杉太がそこに手を伸ばした瞬間、影が一気に動き、彼を包み込んだ。

「杉太!」

ちはるの叫び声が霧を裂いた。彼女は駆け出そうとしたが、千景が再び彼女の腕を掴む。

「待て! 無闇に動けば危険だ!」

「でも、杉太が……!」

ちはるは必死に振りほどこうとしたが、千景の力は強かった。

「俺が行く」

その短い言葉にちはるは動きを止めた。千景の目が影を鋭く睨みつけている。その目には冷静さと、それを覆い隠す焦りが入り混じっていた。

「お前はここで待っていろ。絶対に動くな」

その言葉を残し、千景は前に進んだ。ちはるは彼の背中を見つめながら、ただ祈ることしかできなかった。


霧の中、影と灯火は再び動きを増していく。千景の背中が影に飲み込まれていくのを見つめるちはるの心は、再び張り裂けそうなほど揺れていた。

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