聖光が一歩ずつ後退するたびに、霧の中の灯火が揺らめきを増していた。それは不自然に左右へ揺れ、まるでこちらを誘うような動きを見せている。その様子にちはるの胸はますますざわついた。
「待って、あの灯火……」
ちはるが声を上げかけた瞬間、綺羅羅がそっと彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫よ。彼はきっと無事に戻るわ」
彼女の声は落ち着いているが、その指先がわずかに震えているのをちはるは感じ取った。
「でも……あの灯火が、ただの灯りとは思えないの」
ちはるの視線は依然として霧の奥に固定されていた。その目には恐怖と好奇心が入り混じっている。
「何があったとしても、まずは彼が戻るのを待つべきだわ」
綺羅羅は微笑みを浮かべながらそう言ったが、その目には計算された冷静さが宿っていた。それを察したちはるは、言葉を飲み込む。
その時だった。
聖光が突然立ち止まり、振り返った。その顔には明らかな緊張が浮かんでいる。
「……何か、いる」
短い言葉だが、その重みが一同の心を掴んだ。千景はすぐさま前に出て、手にしていた小型の武器を構えた。
「どこだ? 何が見えた?」
その声は鋭いが、どこか焦りが含まれている。彼の目が霧の中を鋭く探る一方で、杉太が横から言葉を挟んだ。
「待てよ、焦るな。何かがいるってのは確かでも、それが敵かどうかはまだわからないだろ?」
彼の軽快な口調が場の緊張をわずかに和らげる。それでも、彼自身も拳を強く握りしめており、内心の不安を隠し切れていなかった。
「そうやって油断してるから、簡単に足を掬われるんだよ」
千景の冷たい声が返ると、杉太は肩をすくめて苦笑した。
「掬われないように気をつけるさ。でも、ちょっとくらい肩の力を抜かないと、倒れるのはお前の方だぜ」
ちはるは二人のやり取りを聞きながら、胸が締め付けられるような感覚に襲われていた。争うべき時に争う彼らの態度が、今はとても恐ろしく映った。
「二人とも、やめて!」
思わず声を張り上げると、全員の視線がちはるに向けられる。その視線を浴びながらも、彼女は怯むことなく言葉を続けた。
「今は誰が正しいとか間違ってるとか、そんなことを言ってる場合じゃないでしょ! 私たち、ここで一緒にいる意味を忘れてない?」
その言葉に、千景が眉をひそめた。いつも穏やかなちはるが声を荒らげることは珍しい。彼は何かを言おうとしたが、その言葉を飲み込むように目をそらした。
「……わかった。だが、次に動くときは俺の指示を待て」
そう言い捨てて、彼は霧の奥を再び睨みつける。その背中にちはるは小さな安堵を覚えたが、それでも全てが解決したわけではないことを理解していた。
綺羅羅が、微かに笑いながら彼女に囁く。
「ちはるって、意外と強いのね」
「強いんじゃなくて、ただ怖いだけ……」
ちはるが苦笑いで返すと、綺羅羅は小さく肩をすくめた。その優雅な動きが、場の重さをわずかに軽くする。
その瞬間、再び霧の奥から音がした。それは低い唸り声のような響きで、まるで地の底から這い上がってくるようだった。
「来るぞ」
千景の短い言葉が全員の背筋を凍らせた。聖光が前を指差すと、霧の中で影が動いた。揺れる灯火の向こうに、何か大きなものが蠢いている――。
ちはるは自然と手を綺羅羅の腕に伸ばしていた。その小さな動きに気づいた綺羅羅が、そっと手を重ねる。二人の間に言葉はなかったが、その触れ合いだけで、ちはるは少しだけ安心を覚えた。
「進むのか、それとも待つのか?」
杉太の声が、全員に投げかけられる。その答えを出すのは、千景だった。
「進む。一瞬でも怯えたら、相手の思う壺だ」
その言葉にちはるは息を飲む。だが、彼の背中から伝わるのは確固たる意志だった。
ちはるは、灯火の向こうに何が待っているのかを考えないようにしながら、その背中にそっとついていった。