霧の中で揺れる灯に向かう聖光の背中は、頼りない光の中でぼんやりと滲んでいた。彼が一歩足を進めるごとに、湿った地面がわずかに沈む音が届く。その音だけが、彼と仲間たちを繋ぐ細い糸のようだった。
ちはるはその背中をじっと見つめていた。心の中で言い知れぬ不安が膨らんでいく。彼が灯に近づくにつれ、霧の中の灯がかすかに動いているように見えた。
「……あの灯、動いてる?」
ちはるが囁くように言うと、杉太が口を開いた。
「たぶん風か何かのせいだろ。さっきからこの霧も微妙に流れてるしな」
杉太の軽い言葉にちはるは少し安堵したが、霧の中に風が流れている感覚はほとんどなかった。静寂が全てを覆い、空気すらも停滞しているように思えた。
「それにしても、あいつ、案外堂々としてるな」
杉太は聖光の背中を見つめながら感心したように言った。その言葉に、千景が冷たく反応する。
「無駄に勇敢なだけだ。それが賢い判断とは限らない」
「おいおい、そういう言い方はないだろ。リスクを取らないと進まないこともあるんじゃないのか?」
「進むべきかどうかも判断せずに動くのは、ただの愚か者だ」
千景は眉をひそめ、鋭い視線を杉太に投げた。
ちはるは二人の間に漂う険悪な空気を感じ、口を挟もうとしたが、綺羅羅が先に動いた。
「まあまあ、どっちも間違いじゃないのよ。大事なのは、彼が戻ってくるまで私たちが支えることじゃない?」
彼女の声は穏やかだったが、言葉の端々にどこか含みがあった。ちはるはその声に引き込まれるようにして口を閉ざした。
一方、聖光はそのやり取りをよそに、揺れる灯火へとさらに一歩近づいていた。その時、ふと足元に違和感を覚えた。泥の感触が急に変わり、硬い石を踏む音が小さく響いた。
「聖光!」
ちはるが叫ぶと、彼はゆっくりと手を上げて振り返った。その顔は無表情だが、どこか不思議な安らぎを感じさせた。
「大丈夫だ。ただの石のようだ」
彼の声が霧を通して届いた瞬間、今度は別の音が静寂を切り裂いた。それはかすかな振動のようなもので、遠くから聞こえる低い唸り声のようだった。
「今の、何だ?」
千景が鋭く問いかけると、杉太が周囲を警戒するように見回した。
「どこかで何かが動いてる……いや、響いてる?」
杉太の言葉は明確ではなかったが、彼の緊張した表情が危険を物語っていた。
ちはるは無意識に胸元を押さえた。彼女の中で膨れ上がる不安が、何か目に見えない力として感じ取られる。
「聖光、戻ってきて!」
ちはるの叫び声が霧に溶け込むように響いた。聖光は灯火から視線を外し、ゆっくりと引き返し始めた。その動きにちはるは胸を撫で下ろしたが、霧の奥から再び音が響いた。今度は近い――人の声のようなものだ。
「……誰かがいる?」
杉太が疑念を口にした瞬間、霧の中からぼんやりとした人影が浮かび上がった。それは揺れる灯火とともに、ゆらゆらと左右に揺れている。
「まさか……放下師?」
綺羅羅が口元を抑えながら呟いた。その名前にちはるの背筋が凍る。市場で彼らに予言を告げた放下師――あの不気味な存在が、再び目の前に現れたというのか。
「どうする? 行くのか、それとも引き返すのか?」
杉太が問いかけると、千景は無言で聖光を迎えるように一歩前に出た。
「引き返す選択肢はない。進むしかないだろう」
その声にはためらいがなかった。しかし、ちはるにはその強気な態度がどこか不安を煽るものに感じられた。
「……私たち、本当に大丈夫かな?」
小さく零したちはるの呟きは、誰の耳にも届かないまま霧に消えた。