「ねぇ、ロッシュさん。一つ、お願いしてもいいですか?」
少し歩き出して、二人の足音だけが聞こえるようになって、突然グラディスはそう話しかけた。
ロッシュは目も見ずに「なんだ」と返す。
ろくでもない事なのは声のトーンで察しがついた。
「もしも、他に選ぶべき選択肢がなかった場合は、躊躇わないでください」
「それはやらないと言ったはずだが」
「私も選ばないように、全力で行きます。それでも……それでも駄目だった場合ですよ」
そんな最悪の事態なんて考えたくはない。もうこれ以上犠牲者なんて出したくはないと、散々考えたのだ。
そして、全力で戦うと決めた。
その先なんか知るものか。
「くだらない事言ってないで、行くぞ」
「はい」
率いられて、その背を見ながら共に歩むグラディスは切なく寂しげに笑う。
どこかで予感を感じながら、それでも一緒に歩いている今を嬉しく思うから。
二人はやがて大広間へと到着した。
かつてはここに数百人の人を集め、宴を催した場所。
中央に敷かれた赤絨毯、大きなシャンデリア。
その全てが、今では埃をかぶったままになっている。
そこで彼は待っていた。
漆黒の鎧に身を包み、長い黒髪を一つに束ねたウェインは正装をしていたのだ。
ただその胸に、四将軍の証であるエンブレムだけはしていなかったが。
「ロッシュ陛下、グラディス様、ようこそいらっしゃいました。ですが、ここから先一歩も通す事はできません」
通るテノールが広い空間に響く。
ロッシュは眉をしかめたが、堂々と歩き出す。
その後ろをグラディスは少々不安そうについていった。
「何度か、ファウスに会いにきていたのを見たことがある。四将軍ウェイン殿に相違ないか」
「はい」
「……国を裏切り、仕えるべき王家を裏切り、女王についたか」
その容赦のない氷のような言葉は、ウェインの胸に突き刺さった。
だが、弁明などない。
できるはずもない。
彼の言う事は正しい。
事情はどうあれ、裏切りに変わりはない。
「グラディス様、貴方だけは通すようにと女王より言付かっている」
射るようなロッシュから視線を外し、グラディスを見たウェインは静かに告げる。
それを聞いて、グラディスは動揺を隠せなかった。
それでも、戦うのだと決めたのだから尻込みなどできない。
「行ってきます」
「あぁ」と短く低く返したロッシュを置いて、グラディスはウェインの隣を通り奥の扉へと消える。
残った二人の間には、痛いくらいの緊張感がある。
だが、殺意という明確な感情はどこか置き去りのようだった。
「一つ尋ねたい。お前はあの夜、花街に行ったか」
「あぁ」
「ファウスに、会ったのか?」
言葉がない。
重苦しい沈黙がしばし続いた。
ロッシュはどうしても知りたかったのだ。ファウスがどのように死んだのかを。
その、犯人を。
「……彼を殺したのは、私だ」
その瞬間だ、素早い斬撃が一瞬にしてウェインに突きつけられたのは。
もしも剣を抜くのを躊躇っていたら首がなくなっていただろう。
間近に見たロッシュの憎しみに光る瞳を見つめて、ウェインは柔らかな笑みを浮かべた。
「親友じゃ、なかったのか」
「遥か昔の事。忠義も、何もかも捨てた」
ギリギリと刃鳴りがして後、双方共に一度間合いを取る。
だが、すぐに切り結ぶ。
右に左に、上から下から、ロッシュの剣はとても的確にウェインを捉える。
その腕は特定の師についていなかったはずなのに強かった。
「どこでここまでの剣を」
「お育ちの悪い剣だが、人殺しに流儀なんてものないからな」
何合か交わしたウェインはロッシュを真っ直ぐに見る。
ファウスの育てた子。気性も真っ直ぐだ。
情に厚く、仲間思いで、でも少々短気だろうか。
こんな王ならば、もう一度仕えてみるのも悪くはなかっただろう。
上から下に切り下ろされた剣を、ロッシュは下から素早く切り上げる。
そもそも迷いを抱えたウェインの剣に力などなかった。
剣は弾かれて高く飛び、石造りの床に深々と刺さる。
そして、問答無用で切っ先はウェインの首へと向けられた。
「……ファウスが信じたお前を、俺は信じていたかった」
小さく呟いた言葉を、ウェインは聞かないことにした。
聞けば気持ちが揺らぐ。
もう、後戻りもできない。
それに、今更何を尽くせというのか。
差し出せるものなど、もうこの命くらいのものだ。
「貴方の仇だ、陛下。私は国を、貴方の兄を、そしてファウスを裏切った男。信じる価値などどこにもない。ファウスの仇をとるがいい」
ロッシュの瞳は揺らいでいた。その心もまた、揺らいでいた。
目の前の男はそんな軽薄な男ではないだろう。
ファウスの話しでは、忠義に厚く情の深い優しい人だと聞いている。
その彼が国を裏切ったのは、何か事情があるだろう。
それに、本当にこの男がファウスを殺したのか。
遠く離れた場所までわざわざ会いにきていたこの男が、本当に?
だがそんな迷いなど、ウェインの一言で砕かれた。
「ファウスの首を落としたのも、この俺だ」
ロッシュの中で何かが音を立てて切れた。
そして、突きつけていた剣に力をこめてウェインを突き通した。
その手には躊躇いも、余計な感情も何もなかった。
あったのは明確な殺意だけだった。
迫る切っ先を凝視し、ウェインはようやくこの地獄から解放される安堵に笑みを浮かべた。
瞳を閉じ、息を吸う。
そして、その剣がこの胸を貫き通す時をまった。