ロッシュは到着した小屋を飛び出し、森の先にある丘を目指した。
到着したのは見知った森だったのだ。
その森を抜けてゆけば花町を見下ろす丘に出る。
空に昇る無数の白い光が消えた途端、胸騒ぎはピークに達した。
そして、いてもたってもいられなくなったのだ。
「ロッシュ、待てったら!」
走り出すロッシュを追ってラクシュリとジュリアも走る。
一番最後をゆくグラディスは、予感が当たったのだと察して瞳を閉じた。
丘の上は、とても静かだった。何の物音もしない町の様子。
本当に、こんな静かな町を見るのは初めてだった。
「お前、いい加減にしろったら! ここじゃ女王に見つかるだろ!」
「早く森に引き返すべきよ。ファウスさんの気持ちを無駄にしたくなかったらね」
二人の言う事は正しい。
ラクシュリも、ジュリアも間違っていない。
けれど、ロッシュは動けなかった。
そして、更に町へと向かって歩こうとフラフラ足を進めてしまった。
その腕を、掴む手がある。
頼りなく見ると、いつの間にか近づいてきていたグラディスだった。
彼は静かに首を横に振る。
「今から行ったところで、手遅れです」
「そんなこと、わかんない」
「いいえ、分かります。彼は死にました」
「そんなの信じられるか!」
切望に満ちた叫びが夜の丘に響く。
その気持ちは、その場にいる全員の胸にも響いた。
だが、全員がなんとなく予感していた。
彼はもういないのだと。
ロッシュだってどこかでそれは分かっていた。
けれど、認めるわけにはいかなかった。
現実を見るまでは。
その時、不意に何かが闇の中から転がってきた。
丸い、でもそれが何かをこの時ロッシュはまだ分からなかった。
それが、自分の目の前に転がってくるまでは。
「な!」
「っ!」
「あ……」
コロリと転がったそれは、とても静かな顔をしていた。
口の端から一筋血が流れた跡がある。
フラフラと、ロッシュはそこに近づこうとした。
だがその前に、ジュリアとラクシュリが立ちはだかった。
「くる」
ただならない気配がする。冷たい空気が流れ込む。
ラクシュリは退きたい気持ちを奮い立たせてラカントの短剣を構えていた。
その短剣の柄に、ひやりとする手が触れた。
「あら、可愛いのに乱暴なのね」
声が聞こえたのと、体が吹き飛ぶのは同時だった。
まるで転がってきた岩にぶつかったような、硬く強い衝撃が体を吹き飛ばす。
そのまま森の木々のところまで吹き飛ばされて、背中を打ちつける。
息が止まり、悲鳴も上げられないままに意識が飛んで、ズルズルと地面に崩れ落ちた。
「ラクシュリ!」
グラディスはそちらへと体を向けるが、行くことはできなかった。
今のロッシュを放り出すことができなかった。
茫然自失でファウスの首を抱き締める彼を、どうしてこのままおいてゆけるのか。
「久しぶりね、ジュリア。私は貴方も気に入っていたのに、残念だわ」
「ほざけ!」
怒りのまま、ジュリアは女王に剣を向ける。
渾身の力で振り下ろした剣は、だが振り下ろす事もできずに不思議な力で押し留められてしまう。
「そういう、苛烈なところが好きだったのよ。まぁ、もうどうでもいいのですけれど」
剣が凍りだすのを見て、ジュリアは剣を手放して後ろに下がった。
その、下がったはずの腹部にスッと女王の手が伸びた。
「!」
強い衝撃と共に体が後ろへと吹き飛ぶ。
息が止まり、意識は消えた。
ジュリアはそのまま後方の、ラクシュリのすぐ傍まで飛んで転がる。
丘の上は冷たい静寂に包まれる。
ピリピリとした緊張感が漂う中、女王はとても艶やかな笑みを浮かべていた。
「久しぶりね、グラディス。半年ぶりかしら? 変わりなくて安心したわ」
「ソフィア……」
ゆっくりと近づいてくる女王からロッシュを庇いながら、グラディスは女王の名を呼ぶ。
恐れは強く、本心は逃げたかった。
だが、逃げられるものではなかった。
もう、そういう選択ができるような状態じゃない。
あまりに多くの血が流れすぎた。
女王は高らかに笑う。
嬉しそうに。
そして、グラディスの肩に触れ、愛しげに口付けをした。
「どうして私に逆らうの? 貴方も憎いでしょ? 母様を殺し、父様を殺し、私達を長い間塔の上に監禁した人間なんて」
「私の中に憎しみなどありません。ただ、悲しみだけがある。もう、これ以上犠牲者を出すのはやめてください! 母上も、そんなこと望んで」
「貴方に母様の何が分かると言うの!」
ヒステリックな声に呼応して冷気が辺りを一層冷たくする。
グラディスはその冷気を退け、女王を睨み付けた。
そして、スッと瞳を閉じた。
「あら、何をしようと言うのかしら? 貴方のへなちょこな魔法なんてこれっぽっちも……」
『―― ファイア・グランス』
手の平を中心に円を描いた炎から、直線的に爆発的な火炎が吹き上がる。
それは辺りを焼き尽くさん勢いで、夕日のような真っ赤な世界になった。
それをまともに受けた女王は目を丸くして焦げた服の裾を払う。
そして、冷笑をより濃くした。
「そう……それが貴方の決めた道なのね」
制御の禁を解いたグラディスの目に、もう迷いなどない。
真っ直ぐに、女王に負けない冷たい眼差しを向けている。
だが女王はそれを笑った。
そして、スッと左の手を上げた。
「忘れたのかしら? 貴方の命は私が握っているのよ。生命を司る母、ヴィルヴィヤの力は私の中にこそあってよ」
上げた右手が紫に光る。
その瞬間、心臓を締められるような痛みがグラディスを襲った。
息ができない。体の自由もきかない。
全身を締め上げ、息の根を絶とうとするような痛みに悲鳴をあげ、自分を抱き締めてもいっこうに楽になる様子がない。
そしてその背に、紫の羽が一枚大きく羽を広げた。
引き付けを起こし倒れるグラディスを超えて、女王はロッシュへと近づく。
聖剣を手に、ファウスの首を抱えるロッシュを女王は哀れみの目で見下ろした。
「かわいそうに、苦しいのね」
哀れみを含む声は、いっそ慈悲のようでもあった。
ロッシュはそちらに虚ろな瞳を向ける。
スッと伸びた手がロッシュの頭に触れる。
そして、女神のような笑みを女王は浮かべた。
「もう、何も悲しまなくていいのよ」
体が冷えるような気がした。意識も徐々に薄らいでゆく。
その中で、ロッシュは思い出していた。
― 陛下、ご自分を信じてください。守るべきものを守りたいと、願ってください。諦めてはなりません。貴方の体に流れるものを、信じてください。
ロッシュの目に、倒れた仲間の姿が映る。
志を託して散った人の姿が眼裏に蘇る。
心臓が、トクンと強く打った。
そして、聖剣の柄に手をかけていた。