必要なのは真に王として心得を知る、一度しか顔を見たことのない兄なのではなかったかと。
その思いが巣食い、胸を締める。
選ばれた者、王だと言われる度、その思いは枷のように心を蝕む。
「俺は、本当に必要なんだろうか」
ポツリと出た言葉に、ラクシュリは首を傾げる。
ロッシュはお構いなしに話を続けた。
「俺の兄は立派だった。知勇に優れ、人に優しく、国を思う人だった。戴冠の日、俺は兄のパレードを見て核心した。この人こそ王であるのだと。だが、こんなことになって。残ったのは、自覚も何もない血筋だけの王様だ。しかも、神にも嫌われた欠陥品だ」
聖剣があの時光るなりすれば、気持ちが決まっただろう。
自覚などなくとも自信が持てただろうに。
意地悪な神はそれすらも許さなかった。
俯いて、泣きそうな顔で笑うロッシュをラクシュリは見ていた。
そして、ふと兄の影が見えた。
兄も時折、このように悩んでいた。
体が弱く不甲斐無いと、発作を起こせば嘆いていた。
けれど……。
「オレの兄様が、よく言っていた。心が決まれば体は動く。体が動けば時が動く。時が動けば未来が動く。嘆き悲しみ振り向く事も必要だが、振り向くばかりでは先が見えない。見えない明日を不安に思うよりも、見える明日を築く事が大切なのだと。お前は、死んだ兄の亡霊に追われて明日を見失っているぞ」
ロッシュはラクシュリを見る。
小さく、まだ年端も行かない少女の目には確かな希望が見えているようだった。
そして同じ希望を、ロッシュに見せようとしているようだった。
「お前は、強いな」
「お前も強いはずさ。自分で閉ざしただけだ。まぁ、なんかキレる時がくるだろ。覚悟もなんも一瞬で決まるって」
それだけを言い残して、ラクシュリはヒラヒラ手を振って立ち去ってしまう。
残されたロッシュはまた、一人で事を考える事になった。
◇◆◇
女王の城では慌しい動きがあった。
多くの傀儡の兵が列を作り、一人の将兵の前に控えている。
黒く長い髪を風に靡かせるその男は、夜のように深い漆黒の瞳を伏せた。
「出兵の準備は整っていて?」
優雅で冷たい氷の声がする。
金の髪が夜に凄絶な光を放つ。
その笑みは深く、これからの惨劇を楽しんでいるようだった。
黒髪の男は体躯を折って忠節を誓うように瞳を閉じる。
こうしていると、いつも胸は地獄の業火に焼かれるような気分がしていた。
「彼らが、あの忌々しい町へと入ってくれたのは幸いだったわ。ついでに壊して回りたいもの」
「はっ」
「あの町を作った小ざかしい坊やにも、挨拶しなくてはね」
「……」
黒髪の男は言葉を詰まらせた。ただそれを悟られまいと、無表情を通したのだ。
「全軍出陣。惨劇の夜を、彼らにプレゼントなさい」
城門が一斉に開く。
城にいる全ての兵が隊列をなし、城下の町へと雪崩込む。
黒髪の男もまた、馬に乗って城門を出た。
複雑な思いを胸に抱いて。
◇◆◇
「……動きましたか」
離れた花街で、ファウスは静かに口を開いた。
座っていた椅子を立ち、足早に向かう。
そして、多くのスタッフに命じて回った。
「時が回りました。住まう全ての者に伝令を。地下へ避難し、決して扉を開けぬようにと。全ては護符が守ってくれると」
聞いた全てのスタッフが手はず通りに散っていく。
その足で、ファウスはすぐさまラクシュリ等の元へと向かった。
休憩の為用意した部屋に幸いにも四人全員がいた。
「みなさま、すぐに避難を。敵が参ります」
緊張が走る。
それでも、動揺を表に出すような人は誰もいない。
全員が武器と少々の荷物だけを持ち、立ち上がる。
ロッシュも腰に聖剣を差し、立ち上がった。
ファウスはそのまま、地下へと四人をつれていく。
暗い階段を下りていくと昼間とは違う場所に出た。
そこには青白い蝋燭が四本立ち、円形の魔方陣が描かれていた。
「転送用の魔方陣です。これは片道分。行けば戻る事はできません。出口は森の中の小屋です。神聖な場所ですので、女王達は近づけないはずです。そこからは地下の隠し通路を通って進んでください。小屋の壁にある絵に手を触れれば隠し通路へと繋がっています。出口は、食堂の辺りになります」
矢継ぎ早にそう告げたファウスは、四人に一つずつタリスマンを手渡す。
綺麗な色をしたお守りは、そういうものを感じない人間にも何か不思議な感覚をもたらす。
「これは、持つ者の気配を一時的に消してくれるものです。そう長くはもちませんが、安全に身を隠すまでは使えるでしょう」
全員がそれを首に下げ、見回して頷く。
そして、魔方陣の上に乗った。
「皆様に、軍神の加護があらんことを」
「貴方の上にも」
グラディスの言葉に、ファウスは苦笑してみせる。
それはとても切なく、儚く、最後のもののように映った。
ロッシュの胸を何かが強く締め付ける。大きすぎる不安なのだろう。
いや、胸騒ぎだったのかもしれない。
「ファウス」
「陛下、ご自分を信じてください。守るべきものを守りたいと願ってください。諦めてはなりません。貴方の体に流れるものを、信じてください」
そういう会話をしたかったのではなかった。
だがロッシュは何を言えばいいのか見失って、頷くしかない。
目の前で微笑む人を、ただ見るしか。
ファウスの手にあるベルが、リーンと澄んだ音を奏でる。
魔方陣が青い光を放ち、天へと泡のような光を昇らせてゆく。
視界が徐々に、光に遮られてゆく。
ファウスの姿が見えなくなるにつれて、ロッシュの不安や胸騒ぎは大きくなるばかりだ。
親のように、兄のように、傍にずっといた人が離れてゆく。
苦しそうに微笑むものだから、余計に何かを予感させた。
「ファウス!」
名を呼ぶその声に、ファウスは少しだけ表情を曇らせた。
困ったような顔をされるとロッシュだってどうしていいものか分からない。
本心では、ここに残って一緒に戦いたいと願っている。
けれど、それはファウスのしてきたこれまでの努力を全て無にしてしまうのだと知っていた。
もう少しアホで、熱しやすい人間だったらきっとこいつを一人ここに残したりはしないのに。
今、できることは一つくらいしか思いつかない。
「ファウス、必ず生きて俺の元に来い! これは命令だ!」
「陛下」
その言葉は、とても重く鋭く、ファウスの胸に刺さった。
長年仕え、育ててきて、ロッシュは一度だってファウスに命令なんてしなかった。
兄のように慕って、生意気を言っても優しくて、案外細やかな心を持っている子だった。
これが、最初で最後の命令とは……。
ファウスは感情を殺して笑う。
気を緩めれば封じたはずの涙が、溢れて零れそうだった。
そして、たった一度だけ、嘘をついた。
「えぇ、必ず」
消えていく、姿の見えない人々を見送って、ファウスは立ち尽くした。
頬を、薄く濡らすものがある。
見送った姿が目に焼きつく。
溢れて零れ、嗚咽を漏らし床に膝を着く。
そして、ただひたすらに願った。
もう一度だけ、叶うならその姿を見られるようにと。