『美しき国、オルトレイ。そこに巣食うものは、古の聖者か、それとも……』
(オルトレイ創世記より)
ラクシュリは強い衝撃を受けて落ちてきた。
辺りは明るいのに、何かとても嫌な雰囲気がある。
辺りに警戒しつつ、一緒に落ちてきたはずの二人を視線で探していた。
だが、そこに二人の姿はない。あったのは姿身の鏡だけだった。
警戒しつつもラクシュリはその鏡に近づいた。
曇っていて、何も映していない鏡。
だが、その表面にラクシュリが触れた瞬間、鏡はとても鮮明にそれを映し出した。
「!」
驚いて手を引っ込める。その顔には驚きの他に、後悔が映し出されていた。
鏡に映ったのは可憐な少女だった。
白いドレスを纏い、美しい黒髪を長く伸ばした少女。
彼女は鏡の中で微笑み、ラクシュリの手を指差した。
ラクシュリの手は真っ赤だった。
殺めた命の数、奪ったものの数。背後にはいつの間にか屍が積み重なった。
「嘘だ、こんなの……」
頭を抱え、耳を塞ぐ。
眩暈がして、蓋をしていたものが溢れそうになって、ラクシュリは声の限りに叫んだ。
「嘘だぁ!」
鏡の中の少女は笑う。
それは、捨て去った全ての幸せを誇らしげに湛えて。
◇◆◇
ラクシュリ。本名はリルカ=アド=アビスという。
アトラス大陸の東にある、オルトレイ王国の王女として命を受けた。
同い年くらいの少年達を従えて悪戯をするくらいの元気な少女だった。
リルカには五つ年上の兄王子がいる。
体が弱く激しい運動の出来ない兄は、それでも国の王子であると父王を支えていた。
リルカはそんな兄が大好きで、よく兄に古い話しや不思議な物語をせがんだものだ。
だが、権力を欲した奸臣がこの機を逃すはずがない。
彼らは徒党を組み、保守派を取り込んで声高に訴えた。
「体の弱い王子に次期王の器なし! 王女リルカにその地位を譲らん」と。
勿論これを王は跳ね除けた。
女子に王位を継ぐ権利はない。
王家は祖王の血を継いだ男児のみが受け継ぐものと、古より決まっていたのだ。
だが、声は日ごとに増すばかり。
王も跳ね除けるだけではゆかなくなった。
そうして、とうとうリルカと王子の双方を招いての審議会を開かざるをえない状況にまでなってしまったのだ。
「まったく、あいつら腹が立つわ! 兄様こんなに頑張ってるのに!」
兄の執務室でドスドスと音がしそうな程に足を踏み鳴らして怒るリルカに、兄は苦笑する。
そして纏まった書類を閉じて、やんわりと彼女を手招いた。
「リルカ、そんなに怒ることではないよ」
「兄様は優しすぎるのよ! 私ならあんな奴らばっさり斬ってやる」
「これこれ、そのように口が悪いと貰い手がなくなるよ」
白い手が触れて、まだ幼いリルカをあやす。
ムスッとするものの納まった彼女は、大きな緑の瞳に沢山の不安を浮かべていた。
「兄様が王位につくのは天の定め。体が弱いって言っても、剣を握らないだけでちゃんと仕事は出来るわ。それに、義姉様との子が男児なら一安心じゃない」
数年前に結婚し、数ヵ月後には子が生まれる。
跡取りの問題だってそう心配なわけではない。
それなのに持ち上がった跡取り問題にどうしてもリルカは納得がいかなかった。
だが、兄王子は分かっていた。
奴らが本当に欲するものはリルカの更に先。
リルカを女王の地位につけ、その婿養子に自分達の息子をつけ、そして……。
「リルカ、覚えているかい? 創世の物語」
不意にされた話に、リルカはきょとんと目を丸くする。
けれど、頷いてみせた。
「我らの偉大な祖王は、悪しき神よりこの地を解放した。三人の聖人と、神器の力によって闇を切り裂き、光を導いた。その偉大な神器は王家の宝。封印の地にある」
「知ってるわよ、兄様。その神器を、王家は守り続けているのよね」
「目覚めてはならない力だからね。神をも殺す恐ろしき力だから」
優しく頭を撫でる兄王子の瞳には、不安な色が浮かんでは消えている。
それを、リルカは知らなかった。
その夜、リルカの部屋を訪れる者があった。
扉をあけると、線の細い綺麗な女性がとても不安そうに立っていた。
「義姉様! そんな薄着で何をしているんです。大事な体だっていうのに」
戸口に立っていた女性は沈んだ表情でリルカを見ている。
口は重く、言おうとしていることを躊躇っているようだった。
そんな義姉を前にして、リルカは言わんとしていることを察した。
「とりあえず入って。今お茶を淹れるから」
「ごめんなさい」
招かれるまま室内に入った義姉は、椅子に座り何度も言いかけては、口を閉ざす。
それがとても可哀想で、リルカは見ていられなかった。
お茶を出して、対面に座る。
ぎこちなくそれを頂く義姉は、リルカをまともに見られない様子だった。
「心配しなくてもいいわよ、義姉様。私は兄様から何も奪ったりはしないわ」
見かねて、リルカのほうから口を開く。
それに、義姉は弾かれたように顔を上げ、次には涙を流した。
「ごめんなさい、リルカちゃん。私、不安で……。あの人からこの場所を奪ってしまったら、どうなるのかと」
義姉は決して権力に固執するような女性ではない。聡明で淑やかな女性だ。
それでも、身重の体を考え、夫の体の事を考えれば不安になるのも当然の事だろう。
リルカは傍に寄って、その肩を軽く抱き締める。
不安を拭う方法はこれしか知らないのだ。
「大丈夫、こんな天意を無視した事は通らないわ。兄様がこの国の王様よ。そして、この子は私の甥っ子になるの。楽しみなのよ、今から。だから、元気な子を産んでね」
リルカは誓った。
明日の審議で何が何でも守ってみせるのだと。
誰がなんと言おうと、大好きな兄の幸せを奪うような事だけはさせないと。