『その昔、ヴェルヴィヤという美しい女神がいた。人の生命を操る、運命の女神』
(楽園の伝承より)
その昔、まだこの世界が楽園と呼ばれていた頃、とある小さな村に一組の夫婦がいた。
男の名はリュシウスといい、若く聡明で、勇敢な戦士であった。
女の名はヴェルヴィヤ。優しく聡明で、穏やかな女性であった。
彼女は本来神々と共にあるべき者であった。
人の生命を操り、運命を指し示す女神なのだ。
だが、彼女はリュシウスを愛し、人と共にあることを望み、楽園を離れていたのだ。
彼女の腹には既に子があり、数ヶ月すれば温かな家庭が築けるはずだった。
だが、彼女を想う男が、この幸せを妬んだのだ。
その男の名はライギス。王の弟であった。
ライギスはどうしてもヴェルヴィヤを忘れる事ができなかった。
その嫉妬の炎は二人が幸せになればなるほどに増してゆく。
見ているだけの己が虚しく、嫉妬は呪いへと変わりそうなほどだった。
やがて、ライギスは恐ろしい考えへといたってしまう。
ある日、ライギスはリュシウスを呼びつけて、こう命じた。
「鹿狩りをしたいのだが、お前は地理に詳しいと聞く。案内を頼まれてはくれないか」
リュシウスは元来気のいい性格だ。頼まれれば嫌とは言えない。
快くライギスの頼みを聞いてしまったのだ。
狩の当日、ヴェルヴィヤは何か胸騒ぎを覚えて、リュシウスを止めようとした。
だが、頼まれた事を今になって断ることもできないと、家を出てしまう。
山中へと入ったライギスとリュシウスは、しばらくは何事もなく狩を楽しんだ。
だが、森の奥へと行くにつれ、ライギスはその目的を果たさんとソワソワしはじめた。
今ここでこの男を亡き者にすれば、かの女神はこちらに転ぶやもしれない。そうなれば。
ライギスはそれを決行してしまう。
出始めた霧に乗じて、なんとリュシウスを射殺してしまったのだ。
夫の無事を祈り家で待つヴェルヴィヤ。
その耳に、愛しい夫の死が伝えられたのはその日の夜になってからだった。
悲しみに暮れ、意気消沈の彼女。
そこへと近づいたライギスは優しく彼女を慰めた。
白々しくもリュシウスの最後を、獣に襲われそれを助けようとしたのだと嘘をついて。
愛する夫を殺した男だとも知らずに、ヴェルヴィヤはライギスに心を許し始めてしまう。
そんな彼女に言い寄り、ライギスはなんと妻へと迎えてしまった。
当然周囲は反対した。
身重の女であったこともそうだが、ライギスの執心を恐れたのだ。
国の災いになると言い続けた人々の言葉も虚しく、ライギスはヴェルヴィヤとの結婚を強行してしまう。
だが、そうして手に入れた生活に幸せは訪れなかった。
ヴェルヴィヤはライギスといても、常にリュシウスを思い続けた。
共にある時間が長ければ長いほどに、それをライギスは知ることとなったのだ。
「なぜ、私ではなくあの男なのだ」
それをヴェルヴィヤに問いただす毎日。
彼女はそれに涙するばかりだった。
やがて、ヴェルヴィヤの腹は大きくなり、産まれてくるのも間近となる。
そうなるとますます、ライギスはリュシウスが憎くなってくる。
この子を自分の子として育てなければならない。
それが、ヴェルヴィヤとの契約だったのだから。
だが、それがどうしてもできない。
憎しみ、嫉妬、渇望。
それらの感情に支配され、悩まされるようになったある日、ライギスはその手に剣を持っていた。
「何をなさいます!」
身重の彼女へと剣を向けたライギスは、悪魔のような形相で笑ってその腹を切り裂いていた。
血を流し、怒りや悲しみや絶望に声を上げるヴェルヴィヤの前で、ライギスはただ笑っていた。
「その腹にいる子があの男の子供だなんて認めない。お前は私との子を産めばいいのだ。それ以外はいらない」
「なんてことを。この子はあの人の残した大切な命だというのに」
「さぞお人よしの子が生まれるのだろうな!」
吐き捨てた憎悪の言葉。
その全てが、何かをヴェルヴィヤに告げていた。
それは恐ろしくて口にしなかった言葉。
疑いでは口にできない、確信でなければ口にできない言葉だった。
だが、今ここでその疑いは確信のようなものに変わった。
「あの人を……殺したのはお前か」
低く地を這うような声音に、返る言葉はない。
だが、返ってきた嘲笑がそれを物語っていた。
ヴェルヴィヤは震えていた。
憎しみ、悲しみ、憎悪、恨み。
ありとあらゆる負の感情が、全ての光を閉ざそうとしていた。
「おのれ、ライギス。貴様が私の幸せを奪ったのか」
目は血走り、美しい顔は悪魔のように歪み、怒りより髪は禍々しい蛇のようにうねった。
「全て壊しつくしてやろう! 私が失った幸せに見合う不幸を! 地獄よりも恐ろしい世界を見るがいい!」
運命の女神。
その力の全てをまともに受けたライギスは塵も残らず消えていった。
その呪いは彼女自身をも呪い殺してしまうほどだった。
惨劇の地に残ったのは、二つの幼き命のみ。
白と黒の冠を頂いたその赤子を見つけた城の者は、予言が現実となることを恐れ、赤子を別々に幽閉した。
人は罪を犯し、世に白と黒の神が生れ落ちた。
他の神々は呪いを避けて楽園を離れた。
王族はこの醜態を隠し、二人の子の存在を消した。
そして運命は、最も悲劇的で、惨く、恐ろしい方向へと定められたのだった。