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運命を回す旅人(3)

『ファイアーウォール』


 突如した声、熱くジリジリする皮膚の感覚にラクシュリは弾かれたように目を開ける。

 キュゥンッという情けない声を上げたホワイトウルフは後退していく。

 突如現れた炎の壁がラクシュリを囲うように守っている。


「今のうちに木の上へ!」


 姿の見えない若い男の声に従い、ラクシュリは慌てて木に登った。

 獲物を逃すまいとホワイトウルフは遠巻きに唸り続けている。


 声の主であろう男のところに辿り着いたラクシュリは、そこで目を見張った。


 それはまるで音に聞く天使のようであった。

 背の中程まである銀の髪に、神秘的な紫の瞳。細面で鼻梁が通り、とても美しい顔をしている。

 身長も高く、黒く丈の長いローブを纏った青年は穏やかにラクシュリに微笑みかけた。


「まずはここから逃げましょう。まだ動けますか?」

「うん、いける」


 「よろしい」と言った青年は指輪に軽くキスをする。そうして示した指先が、僅かに赤い光を帯びる。


『渦巻く灼熱の炎は全てを焼き尽くす業火。触れるものことごとく燃え上がり、火柱を上げよ ―― フレア』


 指先より燃え上がる炎がホワイトウルフを焼き払う。

 戦意を喪失して散り散りに逃げる狼達を背にし、ラクシュリと謎の青年は木から木へと飛び移る。

 青年は一見走りづらそうな格好なのだが、軽装のラクシュリよりも早く移動していく。

 それを追いかけて随分たって、二人はようやく大きな木の上で止まった。


「この辺りでいいでしょう。おそらく、撒けたと思いますよ」


 それを聞いて、ラクシュリはズルズルと木に凭れてずり落ちた。そして、大きく溜息をつく。

 項垂れて、とにかく安堵したそこへ脇から水が差し出された。


「有り難う」

「いえ、無事でなによりです」


 青年も隣の枝に腰を下ろす。

 ラクシュリはジッと観察するように青年を見てから、慌てた様子で姿勢を正した。


「俺はラクシュリ。アトラス大陸から来たんだ。さっきは助けてくれて有り難う。さすがにもうダメかと思ったよ」

「いえ、大した事ではありませんよ。どうも森が騒がしいと思って行ってみたんです。手遅れになる前でよかった」


 柔らかく、人を安心させる笑みはこういう状況では落ち着く。乱れた気持ちも徐々に収まっていくようだ。

 ラクシュリの顔にも、自然と笑みが戻ってきた。


「奴らは二十から三十頭の群れを作って、数頭を偵察に向かわせるんです。獲物が手強ければあのように仲間を呼んで」

「二十から三十! 俺のいた場所じゃ、精々十頭程度だったのに」


 それだけモンスターが増えやすい環境ということか。

 これが進むと人間は住む場所がなくなってしまう。


「どうりで、モンスター十頭に五百ウォンなんて気前がいいと思ったんだ。これじゃ割に合わない」


 くたびれた様子で溜息をついたラクシュリに青年は笑う。

 そして思いだしたように手を差し伸べた。


「私はグラディスと申します。旅の薬師で、ここにはある霊薬を採りに来たんです」

「薬師? 魔術師じゃないのか?」


 ローブに黒マントなんて、ちょっと目につく。それにさっき魔法を使ったからてっきり魔術師なんだとラクシュリは思っていた。


 一方のグラディスは苦笑してラクシュリを見る。

 その笑みはどこか、苦笑じみていた。


「確かに魔術も使いますが、ここではそう珍しくはありませんよ」

「そうか? 俺のいた大陸じゃ魔術師なんて数がいないからさ。けっこう貴重なんだぜ」

「魔女が支配する神々の楽園ですよ。まぁ、楽園とは過去の姿ですが」


 ラクシュリの近くにグラディスも座り直し、苦しげに俯く。

 がっくりと肩を落として、何かを深く考えている。いや、苦しんでいるようにラクシュリには見えた。


「冬の女王ってのが、ここをこんなにしてるんだろ? どうして倒そうとしないんだ?」


 ラクシュリの言葉にグラディスは一瞬ビクリと震えた。そしてゆっくりと、ラクシュリを見る。

 その瞳は恐れているようだった。


「当時この国一番といわれた国軍を一瞬で倒した相手です。そう、簡単な相手ではありませんよ。それに、女王の兵は数名の将校を残して全員が黄泉の者。死者を二度殺す事は困難です」

「死体操ってんのか、その魔女! ありえね……」


 想像するだけで嫌そうなラクシュリに、グラディスはくすくすと笑う。

 その後は寂しそうに、刺さりそうな青い三日月を眺めていた。


「そのうちこの大陸は、死者の国になるかもしれませんね」

「やめろよ、そういう後ろ向きなこと言うの。俺はここに来てまだ一日も経ってないんだぞ」

「でも、そう遠い未来ではないのかもしれません。植物は枯れ、空は厚い雲に覆われ、人間の生きられない世界に。予言が外れ、残ったのは絶望のみです」

「予言?」


 ラクシュリは問い返す。

 予言なんてものをアトラス大陸の人間は信じていない。

 狂ったような宗教家の声高な演説を聞くと馬鹿らしくなる。


 だがこの大陸は神々が住まう楽園だった。神は身近であり、生活の中にあるものであった。

 グラディスは頷き、伝わる預言をラクシュリに聞かせた。


「時の神、カルマスが伝えたとされる預言書がこの大陸には根強く残っています。過去この預言書は外れた事がない。魔女の出現もまた、預言されていました」

「そんなに当たる預言書があるなら、阻止できたんじゃないのか?」

「阻止しようとしましたが、出来なかったのです。国王は魔女となりえる者を長く城に幽閉していました。けれど、魔女は牢を出てしまったのです」

「まったく対策練ってなかったわけじゃないのか」


 それでも魔女が生まれ、この大陸はこのような状態になった。その預言書は当たったのだろう。


「預言書には、その後こうあるのです」


 グラディスはゆっくりと、物語でも語るように教えてくれた。

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