有希と別れ、千尋は一人で自宅へ続く通りを歩いていた。自転車に乗ったままの海斗へ有希が嬉しそうに駆け寄っていく後ろ姿を思い出すと、胸の奥が何だかざわついていた。
有希から差し出された紙袋を、照れを誤魔化すようにワザと無愛想な顔で受け取っていた海斗。背を向けていたから見えなかったけれど、有希の方はきっとこの上なく幸せな表情をしていたはずだ。
そんな二人の短いやり取りを、遊具に隠れるようにして見ているだけだった自分は、年に一度しかないイベントで置いてきぼりを食らってしまった気分だ。
「……いいなぁ」
自分の気持ちに素直な有希が羨ましい。つい、口から妬みの言葉が漏れてしまう。
家に帰り、二階の自室で制服のままベッドにうつ伏せる。何もする気力が出ない時や落ち込んだ時、こうやって無防備に寝転がっていると、少しだけ気持ちが落ち着くことがある。頭の片隅では制服がしわくちゃになっちゃうな、と一応気にはなるけれどすぐ起き上がりはしない。
どうしてこんな風になっているのか、自分でもまだよく分からない。虚しい気持ちが無性に押し寄せてくる。
どんなに頑張っても、有希みたいに素直になれる自信がない。
しばらく後、ハァと大きな溜め息が出れば、それは気持ちが落ち着いた合図。ようやく身体を起こした千尋は、いつもより丁寧にシワを伸ばしながら制服をハンガーに掛ける。
「はい、ハッピーバレンタイン!」
少しおどけた口調で夕食後にそう言うと、スーパーの特設コーナーで買ったチョコを父の前に差し出す。毎年恒例でほぼ義務的になっている、父親へのバレンタイン。たった数百円のチョコレートボックスだけれど、父親は「ああ、ありがとう」と目尻を下げて嬉しそうに受け取ってくれる。冷蔵庫には母が買ったもっと大きな箱と一緒に、会社で貰って来た義理チョコが入っているのは知っている。でも、いつも一番初めに口にするのは千尋がプレゼントした物からだ。それは幼い頃からずっと変わらない。
「お、今年は生チョコか。美味しそうだね」
「一個貰ってもいい?」
父が一つ目を食べたのを見計らって、横から手を出す。甘い物がそれほど得意ではない父は、頷きながら残りを妻と娘へとさりげなく差し出してくる。それが分かっているから、母はいつも自分が食べたい物を送るようにしているし、千尋はあまり高い物は勿体ないから買わない。
2月15日の朝、教室に入ると速攻で噂好きの女子達から囲まれた。
「ね、ね、聞いたー? 1組の本田君、本命のチョコ3個も貰ったんだってー」
「全部、他の中学の子らしいよ。昨日、塾が終わってから呼び出されてるの見た子がいるんだよ」
「うちではそうでも無いのにねー。他の学校の子から見たら、良く見えるのかなぁ?」
小学校から一緒だとイマイチよく分かんないよね、と失礼極まりないことをヒソヒソと言いながら、各々が首を傾げている。でも、ただのヤンチャ坊主だった時代を知っていると、恋愛対象として見れないというのは一理ある。大きなカエルを頭に乗せて嬉しそうに鼻を垂らしていた姿の印象が強すぎるのだ。でも、今の彼しか知らない他校の女子からすると、本田は爽やかなサッカー少年に映るらしい。しかも、偏差値もそこそこ高いらしい。過去の彼のことを無かったことにすれば、そりゃモテる要素は多いのかもしれない。
塾と言えば、森口柚葉もKSKで同じクラスの子にチョコを渡すらしいと聞いたけれど、昨日は授業の無い日だったから、前日に渡したんだろうか。学校ではクラスが違うから、後日談は全く入ってきていない。相手の子が誰だか分からないから、あまり興味は湧かないけれど。
担任の数学教師、田村が教室に来るまでの間、女子の一部は窓際でバレンタインの噂話で盛り上がっていた。イベントに便乗して告白した子の話や、それをキッカケで誰と誰が付き合い始めたとか何とか。まだ昨日の今日なのに、あっという間にゴシップは広がっていく。女子のネットワークは最強だ。
「そう言えば、有希も島田君に告白するって言ってなかった? ね、どうだったのー?」
自分の席に荷物を置いてから、千尋達のところへやって来た有希は、速攻で噂好きなクラスメイトから問い詰められ始める。このタイミングでこっちへ来たら、彼女らの餌食になるのは目に見えている。千尋は「あーあ」と間の悪い有希のことを嘆く。
「えー、別にチョコを渡しただけだよー」
否、有希は彼女達に昨日のことを聞いて欲しくてやって来たんだ。照れながらも嬉しそうに、でも一応は困り顔を作っている。
海斗への片思いを隠さずに公言している有希だから、チョコを受け取って貰えたという事実も皆に知られたいのだ。
「手紙も一緒に渡してはいるんだけどね、返事とかはまだ何もかなぁ」
「え、それって、ラブレター書いたってこと?」
有希を取り囲んでいた女子が、一斉にキャーと黄色い悲鳴を上げる。次々に詳細を聞いてくるクラスメイトへ、有希は少し得意げに昨日の放課後のことを喋っていた。
好きな人との噂の中心でいたい、それは有希の恋心の一環。少し歪んでるなと思いつつ、千尋は自分の机へ戻ると静かに着席した。廊下から担任の話し声が聞こえてきたのだ。