英語の課題用に持ち帰った英和辞典入りの通学鞄は、二日連続の肉体労働で疲れ切った腕へダイレクトにくる。帰宅して二階にある自分の部屋のドアを開き、やっと荷物が下ろせるとホッとしたのも束の間。千尋は窓際に設置している机の上の光景に、「ゲッ」と短い声を出す。
朝出る時には無造作に置きっぱなしになっていたはずの、読みかけの文庫本と数学のワークは机の隅に整然と並べ直されている。よく見れば床のカーペットは掃除機がかけられたらしく綺麗にすっきりしているし、中途半端に開いていたカーテンも几帳面にタッセルできっちりと留められている。
学校へ行っている間に母親の掃除の手が入っているのは言わずもがな。別に親に勝手に部屋へ入られるのが嫌とかじゃない。親に見られて困る物が無いとは言えないが、まだそこまでは気にならない。
でも、机の上に勝手に積み上げられている物に、今日のところはうんざり顔をせざるを得ない。お目見えするのはまだまだ先のことだと油断していただけに、ハァと大きな溜め息が出る。
圧倒されるほどの存在感を放っているそれは、合わせて高さ30センチ近くもありそうな問題集の山。
椅子の上に鞄を置いてから、千尋は机の上に重ねられた分厚いテキストの一冊を手に取ってみる。どれを見ても裏表紙には見覚えのある塾のロゴが入っている。この辺りでは一番評判の良い、大手学習塾のものだ。2年生になってから夏期講習と冬期講習だけは参加したが、正式にはまだ入塾はしてはいない。
その塾オリジナルのテキストと関連資料集などが、千尋の机の上にドドーンと5教科分揃ってある。ということは、つまり……。
「な、なんで?! 通うのは3年生になってからって言ってなかった?!」
慌てて一階のリビングへと駆け込み、のんびりと夕方のニュースを眺めながらアイロン掛けしている母親へと詰め寄る。すでに夕飯の支度は終わっているらしく、キッチンからはカレーの匂いが漂っていた。
「何言ってるの、塾は2月から新学年のカリキュラムが始まるのよ。冬期講習の後に先生もおっしゃってたじゃない」
「ええーっ……しかも、いきなり5教科も取るのぉ?」
「志望校が決まらない内は、とりあえず全教科の対策をしておかないと。どうせ部活なんてほとんど参加してないんだし、週三日くらい頑張って通いなさい。ほら、二学期は英語も国語も成績下がってたんだし」
二学期の通知表を話題に出してきて、母親が少し強めの口調で言い聞かせてくる。千尋自身、二学期の期末試験の結果があまり良くなかった自覚はあったから、それ以上の反論ができない。
「でも、通うのは春期講習からだと思ってたんだけど……」
悔し紛れのように漏らした台詞も、ニュース番組の合間に流れたCMの陽気な挿入歌に簡単に掻き消されてしまった。
あと数か月後には受験生だということは、千尋だってちゃんと頭では理解しているつもりだ。ただ、まだまだ実感はないし、来月からは学校でも実力テストが始まると言われても、いまいちピンと来ない。
それでも、親に言われた通りに夏休みと冬休みにはおとなしく短期講習を受けに行った。こんなに早くから勉強しても絶対に忘れてしまう自信はあったけれど、周りの友達も塾通いを始める子が徐々に増えていたし、そういうものだと無理に納得する。
歩いて15分ほどはかかるが、駅前まで行けば学習塾はたくさんある。個別指導も集団塾も、大手は一通り揃っているという感じ。その辺りはちょっと恵まれているのかもしれない。千尋には何がどう違うのかはさっぱりだったけれど、母がママ友からの情報なんかを元に申し込んできたのは、地域ナンバー1の進学実績を謳っている集団塾だ。校舎の入っているビルには近隣の進学校への昨年度の合格者数を書いた垂れ幕が掲げられているようなところだ。
冬期講習に参加した時も教室には同じ中学の子が半分くらいいたし、通塾するなら千尋もそこでいいと思ってはいた。ただ、週3で5教科というのは想定外。特に行きたい高校がある訳でもないし、必死になってレベルの高いところを受けなくても、普通に入れるところでいいかと気楽に構えていたから。
「何言ってるの、どこの高校に入るかで大学受験の選択の幅は変わってくるのよ。授業の難易度が志望校に見合わなかったらどうするの。どうせなら大学までエスカレーターで上がれる附属を狙うのもいいわね」
小学校からエスカレーター式に大学まで通える私立校出身の母親が、あまりにノー天気なことを言う娘へと呆れた顔を向けてくる。たまたま通い易いところに母のお眼鏡に叶う私立校が無かったから、小中の幼い内の受験を経験させられることは無かったが、高校生にもなれば多少の通学時間は問題じゃないらしい。
将来の夢もまだ何もない中学生に具体的な進路の話をされても困るだけだ。先に推薦で私立高校への進学を決めた大西清香だって言っていた。
「親と塾に勝手に決められたって感じかな。言われた学校を実際に見学に行って、別に嫌な感じじゃなかったから、それでいいやって」
自分の中でこれという希望が無ければ、成績に見合う学校は周りの大人が勝手に決めてくれる。そこが自分に合っているかどうかなんて、実際に通ってみないと分からない。
先輩からのリアルな体験談に、千尋だけじゃなくて有希も納得して大きく頷いていた。有希は三つ上に兄がいるから、千尋よりももっと具体的に受験については考えているのかもしれない。
――受験生なんて、嫌だなぁ……。
まだ14歳なのに、もう将来に関わる選択をしなきゃいけないなんて、何てせっかちな世界なんだろう。先のことは、もっとゆっくり考える時間が欲しい。