二〇一三年一月二十八日。僕は母の命日に墓参りをしていた。
墓に百合の花をたむける。それから手を合わせた。
「母さん……今僕ヤクザやってるんだよ。ごめんな。こんな息子で。母さんとの約束も破っちゃって」
そして同じ墓の下に眠る妹の名を呼ぶ。
「夢、元気にしてるか。それと守ってあげられなくてごめん」
何千回と繰り返した謝罪の言葉。エデンの園で暮らしているであろう夢に、果たして届いているだろうか。
思い返せば、家庭環境が悪かった。
父はギャンブルとアルコール中毒だったし、それでギャンブルに負けた日に酒に酔って癇癪を起こして母に何度も暴力を振るっていた。そんな光景を幼少期からずっと見てきた。
父は働かず、母が寝る間も惜しんで働いた金で遊んでいた。母がそれは生活費だから使わないでくれと泣き叫んでも、顧みなかった。だから母は生活費を増やすためにさらに何個もパートを掛け持ちし、働き詰めた。
そんな母が過労で倒れた。僕が一二歳。妹が一〇歳の頃だった――。
母が病院で精密検査をすると、ステージⅣの乳癌だということがわかった。発見が遅く、もうすでに癌が全身に転移していた。余命は半年。そんな体がぼろぼろの母は僕と夢に謝った。「ごめんね。お母さんがあなたたちを守ってあげられなくて」僕は歯痒かった。こんな言葉、言わせたくなかった。夢も同じ気持ちだったらしく、「お母さん、大丈夫だよ。自分を責めないで」と舌足らずな声で言った。
問題の父は、母の病気を嘆くことなく舌打ちし、「治療費どうすんだよ。これでパチンコ行けねぇじゃねーか」とギャンブルの心配をした。許せなかったのはその言葉を母に浴びせたことだった。
そしてある日、抗癌剤の治療で憔悴しきっている母が、僕の手を掴みながら言った。
「夢のこと、よろしく。あの子を守ってあげて」
僕は頷いた。あの最低な父の代わりになろうと決めた瞬間だった。
そして母は亡くなった。その日は東京で珍しく雪が降った日だった。
それから父はより酒に溺れるようになり、帰ってこなくなった。働くことすらせず、母が貯金していた金も底を尽きかけていた。父は消費者金融や闇金から莫大な借金を重ねた。
僕はこんな現状にストレスを覚えていた。そして夜道に出歩き、喧嘩をするようになった。父への鬱憤を晴らすように。それから『赤城』に入り、そして……夢が殺された。それも僕のせいで。
母との約束が守れなかった。もし僕が死んでエデンの園へと行けたとしても、母に顔向け出来ないなと思った。
高校入学と共に父から離れ、一人暮らしを始めた。学費と生活費はバイトで賄う。それで働くことの大変さが身に染みてわかった。僕たちのために何十時間も働いた母の偉大さもわかった。
踵を返し、駅へ戻ろうとすると人影が現れた。
低い背丈によれよれのTシャツ。その上に黒いカーディガン。僕はその人物の顔を見て驚愕した。父だったからだ。
「お前……久しぶりだな」
僕は父のことを父さんなんて呼ばない。呼びたくない。僕の言葉に父は頭を掻いて、
「ああ、久しぶり」
と言った。お前は墓参りなんてするやつじゃねぇだろ、と思う。それを訊ねると、
「最近来てんだよ。なんかあいつに申し訳なさが芽生えてさ」
今更か。今更そんなこと思ってどうすんだよ。母が苦しんでいる時、心を入れ替えたらこんなことにはならなかっただろう。お前は何もかもが遅すぎるんだよ。
「飯でも食いに行くか? 久しぶりに」
こいつと飯なんか食いたくない。そう思ったが、食事の席でこいつに罵詈雑言並べ立てるのも悪くはないか。
「わかったよ」
ここから歩いて数十分のマックへ向かう。道中これといった会話はなかった。
店では簡単な注文をして席に着く。僕は嘆息して上着から煙草の箱を取り出した。するとそれを父が咎めた。
「おい、お前はまだ未成年だろ。しまえ」
舌打ちする。面倒くせぇな。
「学校はどうなんだ。ちゃんと通えているのか」
「もうやめたよ。今は働いてる」
「どんな仕事だ」
「ヤクザだよ」
父が勢いよく立ち上がった。僕に怒号を浴びせる。
「ヤクザなんてふざけた仕事してんのか。そんなことをする男に育てたつもりはないぞ」
「育てただと? お前は母さんに全部育児を押し付けて、遊びまわっていただけじゃねーか。それでよく育てたなんて言えるな」
父は口ごもり、また席に座った。そして一言、すまないと呟いた。
「お前こそ、働いてんのかよ」
「ああ。土木の現場の作業だ。借金も自己破産したんだ」
「母さんが死ぬ前にそうしてくれたら、少しは未来が変わっていたんじゃないか」
父はうつむき苦痛の面持ちをした。図星だったのだろう。
「なくなって初めてそのありがたみに気付くってか。夢の死についてもどう思ってんだ」
「辛いに決まってるだろ! 自分の娘だぞ!」
「酒に入り浸って、ほったらかしだったくせにか」
「それは……」
父は苦笑して、「健二、なんか強くなったな」と言った。
「どういうことだよ」
「弱々しさが無くなった。芯が太くなったというか」
気持ち悪いこと言うなよ、と言って僕はポテトをつまんだ。
二月九日。夜も深くなった午後九時。
僕の部屋のリビングで夏木がカフェラテをすすって、一息つく。
「亜東佳と『滝川会』について知らべてきたんだけど」
「ああ……」
「順を追って説明していくと、滝川が実は暗殺されようとしたのよ。それを阻止したのが佳」
それで佳が『滝川会』の幹部へ異例の大出世ということか。
「でもそれが怪しいのよ」
「どういうことだ?」
「暗殺の実行犯が清なのよ」
確かに……それは怪しいな。佳が清を使って滝川を暗殺しようとした可能性がある。そうなれば清が消息不明だってこともわかるな。『滝川会』に消されたのだろう。
「それから佳の提案で滝川は表から消えて裏から佳に指示を出しているらしい。命の恩人の佳に絶大な信頼を置いている滝川は、佳の意見を反映した命令も組員に出すんだって。その一つが『赤城』の構成員に半グレを使って薬で買収した一件。なぜ買収したのか、その理由がね、佳は“足”がほしかったらしいのよ」
「足? なんだそれは」
「全国展開している『赤城』の持つ巨大な力と、暴力団にはないフットワーク。それを利用するために『赤城』を侵食して自由に使える半グレに成らせたかったのよ。その力を使って、佳が願っていた“全国制覇”を果たそうとした」
『赤城』を半グレに変わらせたかった。それが理由か。そのことを知って、ふつふつと怒りが沸き上がる。
——佳が全ての発端か。だとすれば、奴を叩けば『赤城』を守れるかもしれない。
「これで情報は終わり。……ねえ、最近仕事はどうなの?」
「滝川の暗殺チームに入った」
すると夏木が目をむいた。
「鉄砲玉とか任されるってこと?」
「それはわからない」
だがそれは十分にあり得る話だ。若手が鉄砲玉として人を殺すことを命じられるなんてよくあることだから。
夏木はどこか遠くを見るような目をした。それは僕の瞳のその奥まで見透かそうとしているようで。
「少し散歩しない?」
「こんな時間にか?」
夏木が立ち上がり、トレンチコートを羽織った。
「いいじゃない。気分転換だよ」
まあいいか、と僕も上着を身に着けて二人してアパートを出る。夜風が体に当たり芯まで冷やそうとする。
「北川って総長の器かな?」
「あいつは根性あるし、喧嘩野郎だがそれ以上に仲間想いの男だぞ」
「ふーん。その北川をあんたは自分の人生犠牲にしてまで守りたいんだ」
「……」
他愛もない談笑のはずが、急に夏木が毒を刺してきた。
「総長の器がある北川なんだし大丈夫でしょ。放っておいて。というか、北川の身内の話でしょ。あんたに頼る時点でおかしいわよ」
「おい、これ以上言うな。怒るぞ」
夏木はいたずらが成功した子供のような笑いを見せて、
「少し思っただけ。ごめんね」
そして夏木は空気が澄んで星が輝く夜空を見た。
「私、あんたと結婚したい」
「は、何言ってんだよ」
「子供とかほしいね」
「それ以上喋るな。想像しただけで寒気が走る」
夏木は構わずに、女の子がいいなと夢を語っている。だが夏木はそれが叶わないことをわかっている。ただそれを言語化するだけで、自身のどうしようもない気持ちを整理しようとしているのかもしれない。