オーナーがとっくに警察に通報したので、僕たちは逃げるように店から出た。
上原らに別れを告げ、僕と夏木は帰路に着く。
僕は夏木への気まずさから、煙草を吸っていた。夏木は腹部を押さえて少し顔が歪んでいる。暴行を受けたからだろう。
夏木が息をつき、「煙草、一本頂戴」と言ってきた。渡してやると夏木はライターで火を点ける。
「ねぇ、健二は今日の仕事、どう思う?」
どういう意味だよ、と思った。夏木が今回のことを根に持つのは仕方ないけど。
「別に……夏木には悪いと思ってる」
「そうじゃなくて。まだゲソ付けして数カ月の新人にこんな仕事を任せるなんておかしいと思わない?」
……言われてみれば確かにそうだ。襲撃の指揮を任される新人なんて、いないだろう。普通は数年キャリアを積んだ構成員が担うものだ。例えるなら、新人の会社員がいきなりプロジェクトリーダーに抜擢されるといったところか。
思わず舌打ちしそうになる。どうして気付かなかったんだ。馬鹿か僕は。
「僕はもしかして、はめられようとしていたってことか?」
「そうね、多分」
大友は、僕をはめて『多田組』から破門にしようとした。失敗することを予想して——。大友は僕を嫌っている。だから排除しようと今回これを画策したのだろう。大友は組長になることを望んでいる上昇志向の塊のような男だ。ゆえに、次期組長候補の根は積んでおきたいのだろう。
「あんたは厳しい世界にいるのね」
「まぁな」
「そんなあんたがどうして関東最強って言われるようになったのか、興味があるわ」
その言葉に少し驚く。唐突だな。言ってなかったか、と訊くと夏木は頷いた。まあ、隠すような話でもないし、僕は語り始めた。
どうして関東最強になったのか、その経緯を——。
二〇一一年七月。いつも通り、公園で『赤城』の連中はさわいで踊っていた。その片隅で、僕と北川は談笑していた。酒を傾けながら、北川は興奮してある暴走族について語る口調は饒舌だった。
「——それで、『亜東一家』を率いている亜東兄弟がこれまたすごいんだよ。兄の清は関東最強って言われていて、噂によると百二十戦無敗。その喧嘩強さは折り紙付き。弟の佳はとにかく頭が切れる。チーム一の策士家だ。武闘派の清と、頭脳派の佳は互いに足りないものを補いながら関東で勢力を伸ばしている。今注目の暴走族だよ。ああ、いつか亜東兄弟と喧嘩したいな」
それを聞いて僕は苦笑した。北川が喧嘩好きの盛んな奴だったと思い出したからだ。
相原が総長から退いたあと、北川が新総長になって間もなかった。『赤城』の“喧嘩禁止令”が今だ守られている中、抗争という浮ついた話はなかった。全国を統一した巨大すぎる『赤城』に抗争を仕掛けるチームなど存在せず、そんなことを企てるのは馬鹿げていると皆が周知していた。故に退屈な時間が過ぎていく。
そうだったはずなのだが――。
深夜の街に大勢のバイクコール音が、闇を切り裂いた。北川が神妙な顔になる。こんな時間に代々木公園の周辺をうろつく暴走族や不良なんていない。その訳は、ここが『赤城』の縄張りだと不良界隈なら誰もが知っていて、そんなところでコールを鳴らすなんて喧嘩を売っているのと同じ意味だからだ。だから怖くてやらないはずだ……。
その音は公園に近づき、そして止まった。
ぞろぞろと五十人ぐらいの若者の集団——この時代に似合わない白の特攻服を身に着けている——が威風たる顔で現れた。その集団の先頭に立っている二人の青年——一人は目元にかかるほどの長髪に、煙草をくゆらせている。長い背丈で、ところどころの筋肉が攻撃的に隆起している。もう一人は赤髪のツーブロックでどこかナルシズムを感じるような、驕りをうかがわせる奴だった。
その二人を見た北川が唖然とした。「……亜東兄弟じゃねーか」
『亜東一家』は群馬県を中心に活動していて、関東だけで言えば『赤城』『日光』に次ぐ暴走族だ。そんな連中がこんなところになんの用だ。まあ、普通に考えるなら抗争だろうが。
それを察した、たまたまここにいた『日光』の特攻が、電話をし始めた。きっと仲間を呼び出しているのだろう。
「ここに小野健二はいるか?」
長髪の亜東が言った。それに面倒な予感しか湧かなかったが、皆の視線が僕に突き刺さったことで、僕の存在を亜東に主張することになり知らないふりを決めることは叶わなかった。舌打ちする。仕方なく立ち上がり亜東に近づく。「誰だお前」
「俺は亜東清だ。関東最強のな」
自身で最強とか言うあたり、残念な匂いしかしない。よほどの自信家か、不遜な奴か。
「話によるとお前も、喧嘩が無敗らしいじゃねーか」
「だからなんだよ」
喧嘩無敗だろうがなんだろうが、そんなことお前に関係ないだろ。
「——タイマン張れや」
気味が悪いほど堂々と言い放つ。こいつの想像する未来では、勝利しか見えていないのか。自身が唯一だと考えるところは、まるで唯我独尊だ。そんな男と関わりたくない。
「嫌だな」
その言葉に清は嘲笑を浮かべた。そうして僕を興奮させようとしているかのように。
「そんなことで不良やってんのか。しかも不良なら誰もが羨む日本一の暴走族で。呆れたな」
「なんとでも言え。僕は暴力が嫌いなんだ」
「だからか。お前がそんな半端者だから妹が殺されたんだろ。弱小チームの『吐夢走夜』なんかに」
「あ?」
思わず拳が出そうになる。こんな奴の口から妹のことなど言われたくない。すると清はやれやれと嘆息し、腕を振り上げた――。
衝撃が走る。肝臓が殴られその部分の筋肉が悲鳴を上げた。歯を食いしばって、それを耐える。すると清が恍惚と言った。
「すごいな。俺の拳に耐えられた奴などいなかった。お前が初めてだよ」
ぜひ楽しませてくれ、と清は構える。僕もどんな攻撃にも対応出来るように腰を軽く落とした。臨戦態勢。
清は流れるように拳を繰り出してくる。それをよけながら来るであろう“一瞬”をうかがう。おいおいそんなものか、と清が距離を詰めてくる。
そしてそれは刹那だった。清が右ストレートの時、僕は鳩尾に向けて殴った。その衝撃に清は耐えられず片膝をついた。かすかに息を荒立てる。
「お前、最高だよ」
清は痛みに快楽を覚えているようだった。「今までにない感覚だ。全身がまるでしびれるような、だけど痛みじゃない。そうか。俺は絶頂しているんだ」
立ち上がり、にこやかに笑った。「お前と出会えてよかったよ」
僕は思う、清はとんだマゾ野郎だと。
今度は清が僕の大腿目掛けて渾身の蹴りを出す。それをもろに喰らった僕は立っていられなかった。膝をつき、痛みが激しくアピールする大腿を意識する。その崩れた僕の顔面に蹴りを浴びせた。地面に屈する。
「こんなもんか」
その諦観めいた一言に、僕の心が燃えた。痛みに喘ぎながらも立ち上がり、それから一気に距離を詰めて素早いストレートを出した。右、左と収縮されてそこから伸ばされる時に生み出された力に清は悶絶する。
そして最後の一振り。それをもらった清は大きく地面に倒れた。僕は体力の消費を肌身で感じながら、煙草に火を点けた。昂った気持ちを抑えるために。
清は立ち上がれなかった。もう消沈しているのだ。
こうして関東最強の男は倒した。明日からもう不良ネットワークでこのことは広まり、僕は新たな関東最強の男として語られることになる。嫌な名声だ。
周囲を見ると、いつの間にか上原ともろもろの『日光』の集団がいた。愕然とこちらを見ていた。
すると赤髪の青年——きっとこちらが佳だろう——が拍手をした。仲間がやられたというのに酷く余裕釈然としていた。まるでわかっていたことのように。
「さすがです。小野健二さん」
「黙れ、今苛々してんだ」
佳はわざとらしく肩を竦めた。どこかこの男のしぐさ一つ一つが妙に演技がかっていて、まるで自分は舞台俳優だ、とでも主張するかのようなほどだった。
「おっと、怖い怖い。今のあなたには覇気が漂っている」
北川は警戒心が十分に含まれた声音で問いた。
「なあ、お前たちの目的は何なんだ? こんな大勢引きつれたってことはただ健二とタイマンしたかったわけじゃないだろ」
佳はそれには答えず、ただどこか遠くを見て、
「このタイマン、うちが勝ったことにしてくれませんかね」
その言葉に大きく反応したのは、上原だった。
「何言ってんのかわかってんのかテメェ?」
不良独特の憤りを見せ、佳の胸倉を今にも掴もうとしている。
「私たちはね、全国制覇したいんですよ。八〇年代から精力的に活躍していた『赤城』に比べて、私たちはまだまだ新参ですが、果たしたい夢は大きくあるんですよ」
『赤城』が全国制覇出来たゆえんは、八〇年代から他チームを食いつぶしてきたからだ。その頃、『赤城』には伝説の男がいて、その活躍で今の地位を確立出来た。不良が闊歩する時代で生き残れたのはそういうわけだ。
「だからね、踏ん反りがえっているあなたたちを、その玉座から引きずり落としたい」
「で、奇襲か?」
「そう思ったんですがね……小野健二がいるなら引き下がったほうがよさそうだ」
佳が側にいた仲間に、あの醜態を晒している馬鹿兄をつれてこいと指示を出した。
清は仲間に肩を貸され立ち上がると足を引きずらせながら、去っていく。そのあとを集団と佳が続く。
怒涛の勢いだった。僕は息をつき、疲労から逃れるために天を仰いだ。
「あの極悪非道の限りをしていた清から襲名したなんてすごい……」
「そうか……? 確かにあいつは喧嘩は強かったが、僕からしてみればそれほどでもなかったぞ」
「将来ボクサーにでもなればいいのに。才能あると思うよ」
ボクサー、か。自分で言うのもなんだが見込みはあるかもしれない。けれど暴力は苦手だしな。それを職業だなんて……。いや、暴力団の僕が言うには矛盾してるか。
夏木が煙草を地面に捨てて、僕の前に立った。上目遣いに僕を見るその顔は、わずかに赤く染まっていた。それは恥じらいなのか、はたまた先ほどのホスト店で飲酒をした酔いから来るものかは僕にはわからなかった。
「ねえ、健二。私……あんたの力になりたい。だからたとえどんなに傷つけられたって構わない」
そう自然と言ってのける彼女を見て、僕は返す言葉が見つからなかった。彼女の言葉だけ見ればただ純粋に他人を想っているだけと解釈が出来るかもしれない。ただあの夏木だ。中学の頃から他人をいじめて、転校するまで追い込んで蹴落としてきたような女だ。彼女に純粋さなど、ないのだから。だから僕はただ、
「ああ」
と淡白に、夏木に対しての疑いの気持ちが乗らないようにした。