目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第11話 ドスを左手に刺され。

 苦痛って、なんだろう。こんな時冷静に考えていた僕は、左手の甲から絶えず主張してくる鋭い感覚が、もはや麻痺してくる頃に痛みの定義について思っていた。そうしないと痛みに呑み込まれ、雁字搦めになってしまいそうだったから。


 今、兄貴の大友の指示で左手にドスを刺している。仕事で失敗し、その落とし前という理由だ。今時、こんな古典的な落とし前、やる奴なんていないだろうに。

 当の本人、大友はソファに座り痛みで歪んだ僕の顔面をおかずに酒をあおっている。快楽の最中にいるのか表情が緩んでいる。人の苦しんでいる姿を見てオルガズムを感じるなんて趣味の悪い奴だ。

「いやー、愉快だな。なあ、小野楽しいだろ」

 楽しさなんて感じるわけがない。マゾではないんだし。だがそれを口に出そうものならまたどんな仕打ちがやってくるかわからないので、首肯した。

 けらけらと笑い、すると立ち上がり僕の左手に酒を垂らした。傷口にアルコールが染みたことで痛みを感じる器官が覚醒し暴れ回った。思わず喘いだ。大友は僕の顔面を蹴飛ばし、「声出してんじゃねーよ」と全くもって理不尽なことを言い放った。


 固定電話が鳴った。大友は舌打ちし、お遊びを取り上げられたような子供みたいに怒りを露わにした。時刻は夜の十一時。事務所には夜中だろうが連絡はかかってくるのだ。乱暴に受話器を取り、何度か問答を繰り返し、勢いよく置いた。


「小野、仕事が入った。『滝川会』の男が俺らの縄張りでバイやってたのをうちの組の奴が見つけて拉致ったらしい。すぐに監禁場所に向かうぞ」

 深めに刺さったドスを抜くのを躊躇すると、見かねた大友がそれを容赦なく引っこ抜く。激痛に歯ぎしりする。急かすように大友が「早く来い」と言う。下っ端の仕事は運転も担わないといけない。事務所を出て近くのコインパーキングへと向かう。そこで止められたミニバンに僕と大友は乗り込んで、大友の道案内で車を走らせた。

 約一時間、東京から出た峠道。その付近にある廃屋で車を停めた。何台かの車が止まっており、月明かりに数人の背広姿の男たちが映えて見える。僕たちも車を降りる。

 大友が背広の一人に声をかける。その会話は聞き取れないが、きっと捕らえた男の特徴を聞き出しているんだろう。

 廃屋の中に続く錆びれた扉を開けると、鼻をつんざく異臭がした。思わぬ臭さに鼻をふさぐ。大広間へと入ると、月から照らされる薄明りの室内に、椅子に縛り付けられ黒のゴミ袋を頭に被せられた上半身裸の男がいた。僕はその男を見て違和感を覚えていた。既視感があるような。


 大友は男に、「ゆっくり自己紹介してもらおうか」と言って男の腹部を殴った。すると変な呻き方をした。きっと口にガムテープを付けられているから声が出せないのだ。そして数発顔面を殴ってから、ごみ袋を取り上げる。男の顔面が目立つ。そしてようやくこの瞬間、違和感の正体がわかった。

 男は、相原だった。かつての『赤城』の総長。今何をしているかは知らなかったが、『滝川会』に入っていたとは。

『滝川会』とは、関東で『多田組』に次ぐ巨大な暴力団。この二つの暴力団は睨み合いをし、水面下で抗争の準備をしていたという噂を、聴いたことがある。


 なら、これはまずいのでは。もし今相原に危害を加えればそれこそ組上げての抗争なんて話になるだろう。巨大すぎる暴力団ゆえ慎重になるだろうが。

 そんな僕の心配を知らず、何度も相原を痛め付ける。そしてスーツの上着からスタンガンを取り出した。それを首筋に当てると相原の全身が酷く痙攣した。声にならない声を絞り出した。痛みが終わることを切願するように。僕は見ていられなくて目を背けた。

 大友が相原のガムテープをはがした。すると相原は喘鳴交じりに、「健二、助けてくれよ」と大声を出した。それを聞いた大友は悪魔の笑みを浮かべて、僕にスタンガンをよこした。

「なんだ、知り合いか。ならお前がやれ。こいつから情報を聞き出せ」


 僕と相原が知り合いだと悟った大友が、そんな要求を突き付けてくる。上の序列からの命令は絶対だ。ヤクザの世界ではたとえそれが殺人でも遂行しなくてはならない。

 僕は怯える相原にスタンガンを首筋に当ててやった。今度は大きく絶叫する。その悲痛な叫びは部屋中に拡散した。

 相原との関係は、切っても切れないもので、恩人ともいえる。そんな人を今、拷問を与え自白させようとしていることに、内心、世界への恨みを大声で叫び神とやらの頭部めがけて銃口を構えるさまを想像した。神は二面性の性質を宿している。救いの手を差し伸べることもあれば、首の先を切りつけ奈落へ陥落させる。その両極端な存在に人々は怯え、時に切に願う。


 阿呆らしい。そこまで考えてスタンガンを離した。今幻想を抱いても現実は変わらない。結局神という存在は、異質なものを後々語り継いだだけ。後世にわたるごとにそれは捻じ曲がり、変形した。そんな不確かなものを想起するよりも、この現実問題を解決しなくてはならない。

 すると大友の携帯に着信音が鳴った。大友はそれに出ると、数分後通話を切り嘆息した。

「若頭からの呼び出しだ。小野、お前はここに残れ。また連絡する」


 そう言い残し大友と男たちは立ち去っていく。だからこの空間には僕と相原ただ二人。僕は額に汗を浮かべ、必死の形相の相原に土下座した。すいませんでした、と言うと苦悶交じりの声で相原は笑った。

「大丈夫だよ。お前は悪くない。全部俺が招いたことだ。暴力団を甘く見ていた……使い走りの毎日で、覚せい剤を売り裁き、そして今、その尻拭いをさせられようとしている」

 その言葉の一つ一つには相原の無念さが垣間見えている気がして、僕は唇を噛んだ。どうして相原が暴力団という、攻撃と悪の象徴みたいなところに入ったのだろう。相原の性格はその対極の、慈悲と愛情と言える。似合わない。


「相原先輩は、どうして『滝川会』に?」

 思わず口に出していた。すると相原は深刻な顔で語り始めた。

「前に言ったこと覚えているか。“自分の身内は自分で守れ”」

 夢を殺された直後、怒りで我を失っていた僕に、相原がたしなめるように言った言葉。その言葉は単調だが、様々な意味を含んでいるように思えて。身内なんて他人は守ってくれない。身内の大切さは自分自身でしかわからない。なら今度こそ行動しろ。そのとき僕はその言葉をそう感じた。だから今、江美と別れ暴力団に入ったのだ。江美を守るために。


「別の暴走族の友人が、俺を『滝川会』に勧誘したんだ。それがしつこくてな。詳しく問いただすともろもろ自供し出した。相原を入会させたら親を殺さないでおいてやると言われたそうだ。思わず耳を疑ったよ。暴対法が制定されてヤクザの締りが厳しくなっても、そんなことがあるのかってな。でも、その友人は俺の身内そのもので、だから『滝川会』に入ることにしたんだ」

 今となっては後悔しているけどな、と全くそうでないような笑みを見せた。それに僕は苦笑する。僕もですよ、と。

 電話が鳴った。上着から携帯を取り出し耳に当てる。「はい」


『小野、男の様子はどうだ?』

 大友の、動物が低くうなっているかのような気持ち悪さを与える声に、思わず携帯を耳から遠ざけた。


「異常はないです」

『なら今すぐ帰ってこい』

「えっ、男はどうするんですか」

 不安が胸に訪れる。自然と焦った声になっていた。

『その男はそのまま監禁しておけ。硬く縛ってあるし、一か月もあれば勝手に餓死するだろ』

 餓死、と重く脳裏にのしかかる。飲食を取れず空腹を感じながら死ぬ。死ぬまで長い時間がかかるだろう。そんな地獄を、相原に与えるのか。


 だがもう一度述べるが、上の序列からの命令は絶対だ。

「わかりました」と言って通話を切った。しばし放心する。

 ああ、これだから嫌いなんだ。暴力が、それで全てが決まる組織が。

 僕は努めて笑いかけた。もうこれで悟ってほしいと願いながら。

「先輩、また一緒に馬鹿話しましょうよ。皆と一緒に酒飲んで、笑ってさ」

 相原は泣き笑いの表情を浮かべた。自分の運命を理解して、これから待つであろう苦痛を想って。

 僕は廃屋を出て、車に乗り込んだ。事務所へと猛スピードで向かう。

 この時、相原のことを考えなかった。いや、考えたくなかったと言えばいいか。


  3


 翌日。事務所で雑務を行ったあと、夜の十一時。

 もうくたくただ。そう思いながら家路に着いていた。

 静かな夜の気配。ここには自分一人しかいないのではないかと錯覚するような感覚。それに少し、安堵していた。多分自分は孤独になりたかったからかもしれない。だから安堵なんてするのだ。


「あ、健二」

 名前を呼ばれ振り返ると、夏木がスーパーのレジ袋を持って立っていた。中にはたくさんの野菜が敷き詰められている。僕はげんなりとして、溜息交じりに呟いた。

「なんか用か」

「仕事終わるの大体この時間だし、夕食もまだだろうから作ってあげようと思って」


 余計なお世話だと言いたくなるが、頭を掻いてそれを堪える。

 二人して無言でアパートに向かう。玄関の扉を開けて部屋に入ると冷えた空間から逃れるために暖房をつける。ゴォォと古いエアコンがうなりを上げる。


 夏木がキッチンで、慣れた様子で戸棚から鍋を取り出す。それから袋からキムチ鍋の元を出したのを見て、鍋を作ろうとしているのだと知る。

 鍋そんなに好きじゃないんだけどな、と考えてから苦笑する。僕は嫌いなものが多すぎる。まるで好き嫌いの激しい子供だ。こんなんじゃ社会に適合できないよな。


 具材を切る音。コトコトと煮立つ音。それをぼんやりと聞き流しながら、テレビを見ていた。何の変哲もないバラエティ番組でお笑い芸人のMCがアイドルに毒づいている。このアイドル、なんか見たことがあるような、と思っても名前が思い出せない。そういえば、しばらくテレビなんて見ていなかったな。ヤクザになってからとにかく多忙で、そんなもの見る暇なんてなかった。

「出来たよ」

 目を開けて時計を見やると、一時間ほど経っていた。いつの間にかうたたねしていたみたいだ。少し酸っぱい匂いが部屋に充満している。キムチ鍋の独特の香り。

 テーブルの前に座り、器に少し具材を取り分けた。相原を見殺しにしたあとから、食欲なんてなかった。本当は一口も食べたくなんてなかったが、夏木が作ってくれたし、むげにするわけにもいかないかという良心からの行動。肉と白菜をまとめて食べる。ただの食材に過ぎないのに、どこかぬくもりがあった。だけど、それが愛情かどうかはわからない。愛情を感じるほど、僕は夏木と親しくない。何も言わずただ食べた。夏木はその様子を見て微笑んだ。


 鍋が半分ほどなくなった。それのほとんどは夏木が食べたが、夏木は食欲のない僕にあえて何も言わず「残った分は冷蔵庫に入れておくから」と鍋をしまった。

 夏木が食器洗いを終えた後、僕にすり寄ってきて、

「今日は帰りたくない」

 と甘く女性的な声音で僕を誘惑した。それから僕たちは自然に口付けし、互いの背を手で這わせながらこの行為を感じようとした。僕はどこか投げやりに、夏木は楽しもうとしながら求め合う。

 酷く官能的な時間だった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?