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第9話 冷たいセックス

 二〇一二年十一月頃。少し肌寒くなって冬の始まりだと思わせる、そんな時期。

 僕は布団の中で天井を見つめていた。その横では夏木が寝ている。互いに肌と幻想の愛情を探りあったあとの、夜中の三時半だった。


 事の最中は、結局どちらとも満足することなく、ただ定期作業としての行為だった。恋人同士は所詮、こうであろう妄想を自分たちも真似ているだけだ。ふと、夏木の持つ性格と異なる透明感あふれる素肌を弄ったことを思い出す。その時、彼女は何を考え、感じていただろうか。そこまで連想して、自己嫌悪する。なに気持ち悪いこと考えているのだろう。

 立ち上がって、テーブルの上のメビウスの箱を取る。もう五本しか中身のない煙草を一本取り出し、くわえてジッポで火を点けようとする。が、オイルが切れていてスカスカとした音が鳴るだけだ。舌打ちして、部屋と繋がっているキッチンのコンロで火を点ける。息をはき出し、独特のメンソールの味わいを舌の先端に感じる。煙草はやめていた。なぜならその道具は自分にとって、嫌な現実を忘れ逃げる手段でしかなかったからだ。初めて喫煙したのは中一の夏。蒸し暑いだけが取り柄の季節は、自分が最も嫌いとする時期だった。二〇〇八年に煙草の自動販売機にタスポが導入されたあとで、手軽に煙草が買えなくてコンビニに足を運んだ。初めて買った青いパッケージのメビウスを吸ったあの感覚は、忘れず記憶の片隅に残っている。吸ったら昂揚し、残酷な事実の呪縛から解放されるのではないかという期待は、数分で裏切られた。短くなった煙草を排水路に捨て、わずかに重たく感じられる肺を全身を持ち上げて動かした。いわば、初体験は不快感しかなかったわけだ。


 そんなものをまた吸い始めた理由は、自分が働く職場の劣悪な環境からくるストレスを、たとえ不快感だとしても忘れられる瞬間が欲しいと思ったからだ。その職場は、サラリーマンが嘆くようなブラックな職場、では到底なかった。


 その職場は暴力団という時代と人の暗影を映すような組織。無理やり構成員としてゲソ付けさせられた僕は毎日、犯罪の匂いしかしない仕事をほぼ二十四時間与えられている。バブル時期の日本、高度経済成長を遂げる時期を支える社会人に広く共感を得られた流行語「二十四時間働けますか」なんて言葉が、経済が低迷する現代社会でなおも残っている環境は、よほどの悪徳企業か、暴力団ぐらいだろう。


 短くなった煙草を灰皿にすりつぶし、もう一度布団に潜った。眠りはしなかった。

 そして朝六時。ブラのフックを付けている夏木を見ながら、僕は訊いていた。

「お前、僕のこと嫌いだろ」

 それに明確な意味なんて、なかった。夏木に嫌われていたい衝動がその言葉を出させていたのかもしれない。夏木はくすと笑い、

「いいえ、私はあんたのことが好きだよ。でも、あんたは私のこと嫌いでしょうけれど」

 と全てを見透かしていた。僕の考えていることや、彼女を都合よく利用していることなどとっくに承知だと告げるように、夏木は虚偽的な微笑みを見せる。これが今の私たちの関係でしょ、と表現するみたいに。それに僕は粟立った。思わず「ああ、嫌いだよ」と言った。その言葉は空っぽで、果たして彼女に届いたのだろうか。


 夏木は膝をつかい移動しながら僕に接近し、僕の頬に手を触れた。冷たく、彼女の特質全てを物語っているように思える体温。そして唇を触れさせた。「あの女のことは忘れなさい」と潤んだ目で見つめてくる。彼女の瞳に映る自分の姿は、きっと酷く滑稽だろうなと思った。

 夏木は制服に着替えて、バッグを肩にかけて部屋を出て行った。

 純粋で時に愛を語らう恋ではなく、ただ体だけが目当ての爛れた関係の恋の方が、僕には似合っているのかもしれない、と思った。


 夏木が言ったあの女である江美のことを考えながら、自分もシャツに袖を通し、ジャケットを羽織った。安物の薄っぺらいスーツは、自分の存在を希薄にさせる。重厚な高級スーツを纏う人よりも、自分はちっぽけであるかのようなそんな錯覚。そんなもの、ただの妄想でしかなく、自信のなさがそんな思考にさせるだけなのだが、そう思わずにはいられない。

 スーツの内側に染み付いた、クリーニングでも落とせない血痕を見やる。その部分だけどす黒く変色している。これは暴力団に入りたての頃、仕事で失敗し落とし前としてスーツの外側から腹を刺されたときに出来たものだ。これを見ると今日も失敗は許されないと自然と気が引き締まる。脳が痛みに怯え、それを引き起こす原因を避けて行動を取る単純な防衛本能。


 玄関の外に出て扉の鍵を閉める。体を突き抜けるような寒さを感じながら、階段を下りる。黒のミニバンの鍵を開けて、運転席に乗り込む。もちろんまだ十六歳の自分は免許など持っていないが、事務所の若頭の運転手を任されているので、やりたくはないがこれも仕事だ。車のエンジンをかけて、ギアをドライブに入れてゆっくりアクセルを踏んだ。最初の頃は運転の勝手がわからなかったが、今となってはもう慣れた。車を走らせながら一度目の信号で止まる。もし警察に検挙されたら、ナンバーの情報から僕が属する暴力団にまで辿られてしまう可能性があるので、走行中は常に周囲に警察車両がないか確認する。


 特に何もなく、渋谷にある雑居ビルに着いた。ここが指定暴力団『多田組』事務所だ。ビルの前に停めて、これは違法駐車だがこのあとすぐに組傘下の金融会社に行く必要があるので、そんなこと気にしてられない。それにこの通りは交通も少ないし安全だろう。

 ビルの四階に事務所は構えられている。階段を駆け上がって、扉をノックした。部屋に入ると威風堂々たる空間が広がった。窓際にはオフィステーブルがあり、中央には小さな円卓とその左右にソファが置かれている。壁には日本刀が掲げられ、その上部には額縁に飾られた達筆な文字が踊り、それは『我慢・忍耐・辛抱』という根性論を代表する言葉だった。窓際の革張り椅子に青年が座り、じろりとこちらを見やった。その青年が若頭の佐倉だ。


 若頭とは、事務所でのナンバーツーの立場だ。普通ならトップである組長が在中しているが、佐倉の有能な働きによって、若頭であるが組を任されている。

 他に三人、佐倉の部下の構成員が直立している。その中の一人を見やる。大友という二十五歳の男で、僕の兄貴分だった。わかりやすく言うと上司と部下という関係。大友に頭を下げて、次に佐倉に向いた。


「若頭、今日の予定は竹村への集金です」

 集金とは、その名の通りケツ持ちしている会社にその上納金を回収しに行くこと。

 佐倉は何も言わず立ち上がり、神経質にスーツの乱れを直した。僕と佐倉は事務所を出て、車の後部座席の扉を開けてやり佐倉を乗り込ませる。それを確認してから自分は運転席に乗り込んだ。



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