目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第6話 暴力団に目をつけられ

「『多田組』に目を付けられたのはまずいな。奴らは健二をひったくるつもりだろうな」

 もうすっかり夜になって、灰色に染まる車内。運転席には『赤城』の男がハンドルを握り、横の助手席では険しい顔の北川が、ウィンドウガラスを開けて煙草を吸っている。後部座席では私と健二が、俯いて座っていた。

 健二の肩はわずかに震えているようだ。それは多分畏怖の感情。きっと彼の脳内ではヤクザの言葉が何度もリフレインしていることだろう。


『多田組』と言えば、関東最大の暴力組織だ。全国各地点に二次団体を持ち、たしか指定暴力団になっていて警察から絶えず注目されていたはずだ。

「だがなぜ一界の暴力団がただの喧嘩野郎を勧誘するんだ? 立派な脅し文句まで付けて。奴らの意図はなんだ」


 それに答える者はいない。いや、答えられる者はいないという言葉の方が正しいか。暴力団の考えていることなんて、ただの暴走族には到底わからない。

「どうするんだ健二。お前が組織に入らないと身内を殺されるぞ。もしかしたらそれは周辺の人物も、という意味かもしれない。だとすれば一ノ宮も他人事(ひとごと)では済まないぞ。お前の大切な恋人なんだろ」

「ああ……」

 かすれた脆い声。彼は目元を手で覆って、思案しているようだった。

「なら腹くくるしかないんじゃないか。相原さんが言っていた信念、忘れたわけじゃないだろ」


 信念、男は皆そんな自身の信念を基に行動する。女が馬鹿らしく思うくらいに。不良の語る信念なんて呆れたものだろうと、私は勝手に思っていた。

 いつの間にか私の自宅の前で車が止まった。私はお礼を言って、それから健二に言葉を伝えようとして、やめた。今の切羽詰まった彼には何を言っても無駄だと思ったから


 車を見送ってから、手首の腕時計を見る。午後十時ほど。遅くなることは母に伝えていなかった。玄関の扉を開けると、リビングから鬼の形相で母が現れた。「あんた、今何時だと思ってるの」だが、私の顔の痣を見て途端に凍り付く。


「何かあったの?」

「別に……何もないよ」


 そんな見え透いた嘘に母は複雑な表情で納得した。子供のプライベートには深く入り込まないのが母の良いところだった。だから最後に、「相談ならいつでも聞くわよ」と言い残し去っていった。

 私は階段を上り、自室の電気を点けてノートPCを開いた。検索エンジンに『多田組』と打ち込む。すると何万もの候補が画面上に現れた。スクロールしてサイトの一つ一つを確認する。ウィキペディア、ニュース記事、事件の数々を。

 わかったことは、組織の構成員は全国で二万人をはるかに超え、その組織を束ねるのが総長の織田裕次郎らしい。

 闇の組織と暴走族では力の差がありすぎる。なら健二はおとなしく組織に入るしかないのか。


 今度は『ヤクザ 入会するとどんな仕事が回されるのか』と検索する。

 一つのブログを開く。そのブログの記事を執筆したのが元暴力団の人らしく、つらつらと暴力団の悪質な裏の仕事が書かれていた。


『まず、やらされるのが覚せい剤のバイ。簡単なようで実は危険な仕事。その後、兄貴分と一緒にケツ持ちしている店のミカジメ料を集金しにいく。若手はとにかく嫌で面倒な仕事を回される。暴力団なんて絶対に入ってはいけない』と記されていた。それを見て身震いした。健二はたとえ犯罪行為をしていたとしても、所詮ガキのやること。暴走族としてバイクの暴走行為、煙草と酒の未成年使用。それぐらいだろう。暴力団に入って犯罪の仕事を任され、警察に捕まったりでもしたら懲役が付く。すれば何年間も彼と会えないだろう。


「私は一体、どうしたらいいんだろう……」

 何も出来ない自分に歯痒さを感じた。結局私は傍観を決め込むしかないのか。


 鏡に反射する顔と月光。薄明りの中で、健二は鏡に映る自身と対峙していた。

「なあ、夢。お兄ちゃんはこれでいいのかな」

『吐夢走夜』の斎藤は無様な姿を晒して負けた。不良のネットワークにそれは広まり、斎藤は再起不能だろう。もう胸を張って不良としては生きていけない。

 二つ年下の妹の夢が死んだ頃から、健二の涙は枯れた。どれだけ悲しかろうが、痛みが全身をのたうち回ろうが決して涙は流れない。

 無念を果たした今でも、歓喜の涙は溢れず、ただ心の穴はぽっかりと空いたままだ。


「ほんと、どうしたらいいんだ……」


 お兄ちゃんのしたいようにすれば――、それは夢の声で、俯いた顔を上げると鏡に妹の顔が映っていた。これはただの虚像だ。幻でしかない。そうわかっていながらもそれにすがるしかなかった。

 お兄ちゃんの彼女の江美さん、すごい美人じゃん。夢の声が鼓膜と全身を震わせる。


「夢、守ってあげられなくてごめんな」


 呟いた声に夢は頬を緩ませる。いつだって笑顔が魅力的な少女だった。


 その代わりに江美さんを守ってあげて。約束だよ。

「ああ。絶対守るから」

 よかった、と言った夢の姿は消滅した。また健二の顔が映される。

 エデンの園でもきっとあいつは自堕落に過ごしてるんだろうな。そこには多分、夢が好きだった菓子なんてないだろうけど。

 自分が作り出した幻覚でも、一年振りに出会えたことは嬉しかった。


 江美は絶対に守る。そう決意した。そのためだったらなんだってする。

 江美の笑顔が脳裏にフラッシュバックした。その笑顔は今晩中、こびりついて消えなかった。

 週明けの月曜日。健二は高校ではいつも一人だった。関東最強ということをクラスメイトはおろか学校中の生徒が知っているので、誰もそんな彼に近寄りたくはないのだろう。江美がそのことを知らなかったのは、いじめられていたからだ。自分のことに必死で、他人の噂には興味を持てなかったのだ。


 ペンを回し休み時間が過ぎ去るのを待つ。すると、目の前に女子生徒が立った。


「健二、ちょっと話いい?」


 夏木だった。警戒しながらも、歩き出す夏木のあとに続く。

 昇降口を出て校舎裏。夏木は壁にもたれてスカートのポケットから煙草を取り出した。「あんたも一本吸う?」


「いや、いい。もうやめたんだ」

「そう」と煙草に火を点けて煙を吐き出した。

「あんた、私の彼氏にならない?」

「は」と思わず素っ頓狂な声を上げる。「何でなんだよ」健二は顔を顰め少し後ずさる。


 夏木は「あんた、『多田組』から狙われてるんでしょ」と言った。それで健二は中学の記憶が蘇った。夏木の黒い噂を——。

「お前のおじいちゃん、『多田組』の総長だったな」

 そういうことか、と健二は歯ぎしりする。夏木の祖父、織田裕次郎は暴力団の総長だ。それが原因で、一時期夏木はクラスメイトからハブられていた。中学の多感な時期にとって異質な存在は誰だって排斥したがるものだ。


「そうなのよ。暴力団は堅気には手は出せない、なんてまやかし。たしかに何かあれば本部のガサ入れは避けられないでしょうけど、それでも連中はやると決めたらやるのよ。たとえそれが人殺しでもね」


 夏木がまだ十分長い煙草を地面に捨て、健二に詰め寄りネクタイを引っ張って顔を近付けた。互いに距離が近くなる。


「答えわかってるよね。彼女さんを守りたいんでしょ」

 不気味なほどににやつく夏木を、この場で殴りたかったがそんなことすればただでは済まない。健二はおとなしく首肯し、

「わかった。江美ちゃんとは別れる」

 と、絶対に言いたくなかったことを呟いた。するとなぜか夏木が儚く笑った。


◇◇


 いつも通り、駅のベンチで健二を待っていた。今日は音楽を聴かず、人の喋り声や、蝉のじんじんとした鳴き音。そして屋根から漏れ出る日差しなどの全てを堪能していた。

「お待たせ」

 健二の声。だがその声はなぜかツートン重く、低く濁っていた。私は驚いて彼の顔を見ると、切腹する間際のような、真剣で切羽詰まった表情をしていた。

 電車の到着を告げる音。


「今日、僕の家に来ない?」

「え……」

 健二の言葉に、いらぬ妄想を抱いてしまった。だがそれを否定するように、

「見せたいものがあるんだ」

 と彼は言った。何がそう彼にさせるのかわからないが、とても悲しそうだった。

 電車に乗り込んで、学生たちでひしめく雑多な車内で、つり革を掴んで彼の最寄り駅へと向かった。

 四駅隣で降りて、彼の背中を追いかける。改札をⅠCカードでパスする。

 彼のアパートに着くまで、互いに一言も発さなかった。どこか不自然な緊張感があったからだ。

 アパートは大分と築年数が経っているのがわかるほど古い外観だった。

 扉を開けると、健二が中に入ってと言った。

 整理整頓されている1LDKの部屋だった。リビングの隅に戸棚があって、その上に二つの立てかけられた写真があった。二人の女性——一人は表情に疲れを感じさせる四十代ぐらいの人と、もう一人はボブの黒髪の少女。その顔はまるで私にそっくりで、写し取ったかのように似ていた。セーラー服を身に着け人懐っこい笑みを湛えている。誰の写真なのと訊いてみると、健二は母と妹で遺影だよと言った。妹だけではなく母親まで亡くしていたのか。


「お父さんと暮らしてるの?」

「いや、一人暮らしだよ」

 高校生なのに一人暮らしなんて、そう知ると彼の背中がいつもより疲労感に溢れているように感じられた。健二は苦労人だ。


「見せたいものって?」

「妹の写真だよ。最後に江美ちゃんに見せたいと思ってさ」

 最後という言葉に、引っかかりを覚えた。もしかして、と濁流の不安感が押し寄せる。

 健二は押し入れから桃色のアルバムを取り出して、床に座った。見習って私も彼の隣に腰掛ける。

 ぱらぱらと一枚一枚ページをめくる。赤ん坊の夢がどんどん成長していく姿が、撮った人の愛情を感じさせる写真と共に感じられる。


「この写真、全部撮ったの母さんなんだ。パートの忙しい合間を縫って、僕と夢の写真をこうして納めてくれていたんだ」

 そして、小学校高学年のところで夢の写真は終わった。もうないのかと訊くと、

「この時に母さんが病気で死んだんだ。もう写真は、あの遺影が最後だ」

 そう言って健二が遺影を見やる。そして俯いて、

「僕はさ、ずっと夢のことが忘れられなかったんだ。ずっと存在を追い求めていて、君と出会った。君にいつの間にかもういない夢を重ねていたんだと思う。……最低だよね。だからもう別れよう。こんな僕と付き合わない方がいいよ」


「そんな……」

「勝手だよね。ごめん。僕はもう君の前から消えるよ」

 私は気付いたら健二の家を飛び出していた。止まらない感情。嗚咽しながら歩いていた。すると地面を濡らす強い雨が降ってきた。その雨が身も心も凍らせる。

 絶望だ。また私は一人になった。これから先、どう生きればいいのか……いや、もういっそのこと死んでしまおうか。

 すると後ろからバイクのエンジン音が轟いた。私は地面の隅に寄ると、そのバイクが私の前に止まった。乗っていたのは北川だった。たまたま通りかかったのだろうか。「何泣いてんだよ」と北川は心配する口調で問いかけた。


 私は乱暴に涙をぬぐった。北川には、私の泣き顔を見られたくなくて。


「なんでもないです」

「そんなわけないだろ。濡れるから後ろに乗れ。急いで家まで送ってやる」

「だからいいですって!」


 思わず叫んでいた。それに北川は驚きつつも食い下がる。それに根負けして私は後ろに跨った。

 バイクが走り出す。雨が吹きつける中、北川が「こんなこと前にもあったな」と言った。なんのことだろうと思っていると、

「二年前、ガードレールの淵に座って、いかにも死にそうな顔をしていたお前が空を物憂げに見ていてさ。俺、お前を助けたいって思ったんだ……。それで今みたいにバイクの後ろに乗っけて家に送ってる最中に、夢を語り始めたんだよ。お前が」

「私が、ですか」

 覚えてない。あの時、ガードレールで出会った少年が北川であったことも驚きだが、そんな北川に夢なんて話していたのだろうか。人生に何も掲げず生きてきた。掲げたところでそれは諦観めいて自分自身が否定してしまうし、死を切望していたからどっちみち必要なかった。


「お前、歌手になりたいって語ってたんだぜ。すごいよ」

 北川はにひひ、と笑った。それはまるで少年漫画の主人公のような凛々しくもあどけない笑い方だった。


「世の中、死んで相応の人間なんてたくさんいるが、お前はそうじゃない。夢を持つ人間に悪い奴はいないからな。だから、とにかく生き続けろ」


 そしてこう続けた。「そしたら、俺が健二の代わりに夢を支えてやるよ」と。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?