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第5話 デート

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 七月。夏休み一週間前の休日。私は駅のベンチで音楽を聴いていた。

 その音楽は、今話題の歌手が歌う甘い恋愛ソングで、私は彼との思い出を巡らせながら浮かれていた。

 今日は健二との三回目のデート。上野動物園で彼と過ごすのだ。楽しみで仕方がない。


 すると、肩を叩かれびくりと驚く。聴くのに集中していたから。視線をずらすと健二が立っていた。私はイヤホンを外して挨拶をする。「おはようございます」

「おはよう。待たせた?」

「いいえ。全然」

 健二は隣に座って、私のイヤホンの片方を手に取り耳に差した。


「これ知ってる。この前テレビで歌ってた」そしてメロディを鼻歌で奏でる。

 乗る予定の電車が来るまであと十分もある。

 イヤホンを外したことで夏を感じさせる蝉の鳴き声が聞こえた。そんな音も心地いいな、と感じる。

 健二と出会ってからかなり心に余裕が生まれた。今まではまるで心に闇が常にかかっていて。その闇の中で孤独と絶望が共に嘲笑を浮かべ立っていた。それが今では靄も消え、光が差し嫌な存在が消えた。健二はいつも私を求めてくれる。そのおかげで自分がこの世界に残れる意義が生まれたと思う。全部彼のおかげだ。泥沼に足を取られながらもがいて生きてきた今までの私とは違う。幸せを、感じていた。


 電車の到着を告げるアナウンス。しばらくしてやって来たその電車に乗り込んだ。中は空いていて人がまばらにシートに座っていた。私たちもシートに腰掛ける。

 そして上野駅に着いた。駅では休日とあって人が多くいた。雑踏の中を縫いながら東京文化会館の前を通り、美術館近くの上野動物園に着いた。園の前にはカップルや学生たち、家族連れが多くいた。私と健二もそれに混じって入場パスを購入する。表門から入る。


 早速目に飛び込んできたジャイアントパンダの檻。

 私は初めて見るパンダの群れにおおげさだが感銘を受けた。もっと近くで見たいと思って健二の袖口を引っ張った。「パンダ、見に行きましょうよ」

 列に並び、悠々自適に過ごしているパンダを見て、わずかながらの昂揚を感じた。愛くるしい姿に思わず「かわいい」と言った。すると頭の上に軽い違和感があった。目を上げると健二が私の髪を撫でているのがわかった。


「君の方がかわいいよ」


 まるでメロドラマの主人公のような台詞を語った彼。私は遅れて羞恥心を覚えた。こんな公共の場でそんなことをするなんて、浮かれたバカップルみたいじゃないか。でも彼はそんなこと気にしてないのかなおも撫でて、髪をすく。温かくまるで日差しのような体温が地肌に伝わってくる。これ以上耐えられない。慌てて——。

「やめてください。恥ずかしいですって」と周囲を気にするように顔を左右に動かした。でも彼はそんな私の反応が気に入ったのか、

「いいでしょ。誰も見てないよ」と行為を続けた。

「もしかして、こういうの嫌い?」

「いや……そういうわけじゃないんですけど……」

 弱々しい態度。それを確認して彼は満足した顔で撫でるのをやめて、「じゃあ次行こっか」

 ぬくもりが残っている頭皮を押さえて彼のあとを追いかける。


 それから、ホッキョクグマやニシゴリラ、キリンなどを見て回り、すっかり夕方になった。

「面白かったね」

「楽しかったです」

 中身のない一辺倒の感想を互いに捧げつつ、健二の提案で少し散歩しようかということになった。

 日が傾いている頃。地面が薄橙に変色していた。一日の中で好きな瞬間だった。少しずつ、陽気な世界が寂しさと茫漠とした、胸が締め付けられるような虚無感を漂わせる夜へと変わるこの瞬間だけにしか、見えない、感じられない”何か”があるようで、それを探るのが好きだった。


 ある路地に入ると、スピーカーから流れるJPOPが聞こえた。それは、自分を締め付ける世の中を激しく呪う思春期のテーマソングとも言える代表的な曲で、その歌手が亡くなったあとでも今も愛されている名曲だった。

 そんな思春期のような集団が、煙草と酒を片手に駄弁っていた。十人程度だろうか。その中の一人がこちらを見やると目を見開いた。「小野健二じゃねーか」

 彼の名前に反応して、他の人たちも驚き、そして嫌悪感をにじませながら側ににじり寄ってきた。


「あの時はどうも世話になりました」


 金髪丸刈りの小柄な男が言う。その口調には健二への恨みや、怒りが感じられた。

 切迫とした時が流れる。緊張の糸は張りすぎていて、今にも断裂しそうなほどだ。

 十人のうちの一人が少し離れて、二つ折りの携帯電話を開いて電話をかける。電話の言葉遣いから察するに、車を手配しているのだろう

「お前たちは誰だ」

「てめぇの妹を殺した勇敢なる『吐夢走夜』って言えば伝わるか」


 その金髪は勇敢の部分を嘲笑混じりに言った。私は思う。文学のトムソーヤはとても勇敢だったが、この人たちは勇敢どころか、こずるい手を乱用し人を奈落の底に突き落とす悪役じゃないか、と。勇敢なキャラクターの名を、ただ借りているだけだ。そうしても、集団の性質は変わらないものだ。

「ちょっと、来てもらおうか。抵抗すればわかるよな」

 私の顔を見やってから、


「このいかにも怯えた女を相手してやってもいいんだぜ。こっちは十人。お前と喧嘩しながらでもそれは容易いだろうな」

 健二は舌打ちした。それから私に向かって「ごめん」と呟いた。健二の表情は、無力な自分に腹を立てているようで、その拳は強く握られ今にも血がにじんできそうだった。今の彼は強い暴力衝動に駆られていることだろう。十人なら彼は倒せてしまうほどの力は十分にある。しかし、私の存在のせいでそれは叶わない。鉾と盾は同時には扱えない。攻撃と防衛は片方しか発揮できないものだ。


「手配出来ました。近くのコンビニに停めるそうです」

 電話を終えた男がそう言った。それを聞いた金髪が、健二の肩に自身の腕を回し、「じゃあ行こっか」と歩き出した。

私の周辺も男たちが、逃げられないようにと包囲する。

「いやー、今日集会サボってよかったわ。思わぬ収穫があったし、総長もきっと喜ぶぞ」

この人たちは集会を休んだということは、そこまで『吐夢走夜』に対して忠誠心が高くないのかもしれない。

十分ほど歩いてコンビニに着いた。駐車場には立ち寄った客を威圧するような、ステッカーが多く貼られた黒のミニバンが三台あった。そのうちの一台に、後部座席の扉を開けられ健二と一緒に詰め込まれる。


 男たちも車に乗り込んで、マフラーやエンジンを改造しているせいか暴力的な音が、エンジンをかけると共に響いた。その残響が耳にこびりつく。

 走り出して、数分。私はこらえきれない不安と恐怖に全身が支配されていた。まるで目の前に人ではない“存在”が佇み、私の心臓を触手で蝕んでいくような胸のこわばり。発汗。そして絶えず救いを求める目元からこぼれる雫。車内では私のすすり泣く音と、煙草の不快な香りが充満していた。


 健二がそっと私の手を包み込んだ。大丈夫、僕がいるからとでも伝えるように。私はその思いに応えるために、手を握った。言葉を発さずとも気持ちが共有出来る。出来ていると信じたかった。

 峠へと車が登っていく。左右にわずかに揺れる車内。きっと終点が近い。そこで健二の処刑が始まる。不良映画でよくあるような多勢に囲まれリンチされる情景が嫌でも想起する。その時私は何をされ、どう思うのだろう。


 車が止まった。「降りろ」と言われ車から出ると、外壁が蔦で茂った廃工場が存在していた。大口の扉は開かれている。その中に入れられると、ざっと五十人は軽く超えているであろう武装した男たちがいた。そしてその後ろで、ここに並べられた錆びれた機械には似合わない高級な革張りソファに座っている丸刈りの男。その男は健二を見るや否や快楽の瞬間でも訪れたように顔をほころばせた。


「待っていたよ。小野」

「斎藤。お前は変わらず下品なことをするんだな」


 健二は大勢の男たちを見て言った。


「不良がすることに下品もくそもあるかよ。お前と出会った一年前からずっと、お前のことばかり考えてこんだけの人数を『吐夢走夜』に引き入れた。中には元『赤城』の奴も混じってるぜ」

「いいか、斎藤。僕の彼女に絶対手を出すなよ」

 健二の言葉に斎藤は高笑いした。

「その女。殺した妹にそっくりだな。お前、シスコンか?」

「おしゃべりも大概にしろ。早く済ませようぜ」 

 健二は怒りを露わにしながらそう言った。斎藤が舌打ちして、「面白くねぇ。そんなにご希望なら、てめぇら相手してやれ」

 鉄パイプを持った男が健二の頭部めがけてそれを振り回す。ひゅん、と風を切る音。健二はそれを腰を落としてかわし、男の顎目掛けて腰を上げる勢いで殴った。その衝撃で男は消沈する。

 次に五人がかりで健二を制圧しようと向かってくる集団。一人一人の攻撃を軽々とよけながら一瞬の隙を見て健二が男たちをくじけひるませる。流れるような肉弾戦に私は圧巻していた。――したら、私の襟元を掴んで男が、私の腹を思いっきり殴った。激痛に驚いて腹部を押さえる。その男が私を押し倒して、にやついた。「どうなるかわかるよな?」私はぞっと悪寒が走った。

 抵抗するも顔面を殴られて、屈服する。汚らわしい手が私の服を脱がそうとする。はだけた服。そこから露出した肌。そこに汚い手がねぶるように這わせてくる。嫌悪感に吐き気を催した。

『健二と関わるとあんた、殺されるわよ』夏木のその言葉がよぎった。そうか、健二に殺されるのではなく、健二に恨みを持った人たちに殺されるのだ。ようやく言葉の意味が理解出来た。

するとその男は横顔が蹴られ、バランスを崩し倒れた。蹴った健二は私の服を少し直し気付かぬうちに流れていた涙をぬぐってくれた。「僕がなんとかするから」


 健二は凛々しく立って、殴り殴られながらも軍勢を減らしていく。でも健二はもう限界だった。荒く呼吸し、少しふらつき始めている。

「もう無理だろ。関東最強という名誉を襲名したそうだが、その程度だ」


 あぁぁぁ、と雄叫びを上げて男に突進するが健二は顔を殴られて崩れ片膝をついた。

 ここからは処刑の始まりだった。健二は抵抗むなしく散々暴力を振るわれた。顔面のところどころに出血が走る。

 斎藤が満足した顔を見せた、その瞬間——バイクのコール音が響いた。その音の数は驚異的に多くわめき立てていた。その異変に、男たちの暴力が止まった。「なんだ?」

 すると、ざっと見積もっても七十人、いやもはや具体的な人数が把握出来ないほどの男たちが中に入ってきた。先頭に立っている男を見て、その集団の正体がわかった。

「『赤城』がなんでこんなところに」

 斎藤が顔を顰め言う。それに答えたのが先頭に立つ男――北川だった。

「お前たち『吐夢走夜』の中にスパイを紛れ込ませたんだ。ここ一年で規模をでかくさせてるって聞いてな。どうせお前の目的は健二への復讐だろうし。俺は健二の親友だから、守りたいと思ってな」

 斎藤は苦虫を嚙みつぶしたような厳しい顔つきになった。


「てめぇら、だれがスパイかはもうこの際関係ねぇ。連中を死ぬ気で倒せ!」

 その号令を皮切りに、『吐夢走夜』と『赤城』の抗争が始まった。軍勢は『赤城』に分があり、あっという間に『吐夢走夜』は劣勢に抑え込まれた。もはや数人程度しか立っておらず、他は地面にのたうち回っている。すると斎藤が携帯でどこかへ電話をかけ始めた。「そろそろ来てください」その電話のあとに裏の扉から、数人のスーツ姿の男たちが現れた。栗髪と長髪の二人の青年、他は丸刈りの中年。私は遠くからでもわかった。この人たちは堅気じゃない。“暴力”の匂いが漂っている。服装からしてヤクザか。


「実は俺らは『多田組』がケツ持ちしれくれてるんだよ。佐倉さん、お願いします」

 斎藤はソファから立ち上がり佐倉と言った長髪の青年に頭を軽く下げた。

 佐倉はまるで猛禽類のような目付きをしていて、どこか不気味だ。その佐倉がスーツの胸ポケットから黒い塊を取り出した。それが拳銃だと認識するには、少し時間がかかった。


「ガキの喧嘩に大人が首突っ込むのかよ……」

 北川が拳を震わせながら言った。どれだけ喧嘩が強かろうが殺傷能力が極めて高い拳銃には誰も敵わない。

 その拳銃を健二の胸部に向けた。心臓に照準が合っている。


「どうだ、怖いか?」


 相手を試すように佐倉は言った。健二は息をはいて、拳を胸に叩きつけた。

「撃つなら撃てよ。僕は怖くもなんともねぇよ」

 乾いた銃声。そして薬莢が地面に転がった。健二は呆然と立ち尽くしている。健二は撃たれなかった。

「いい男だな。ぜひ、うちの『多田組』に来い。もし断れば、お前の身内ともども殺すから覚悟しておけよ」

 佐倉はそう言うと中年たちを引きつれて踵を返そうとした。だがそれを止めたのが斎藤だった。


「ちょっと待ってくださいよ。どうして健二を殺さないんです。約束と違うじゃないですか」

 佐倉は頭を掻いて、「めんどくせぇな」とぼやいた。栗髪に視線を送って、「田村、ちょっとあいつに立場の違いを教えてやれ」とその人の肩を叩いた。

 栗髪の田村は指の骨を鳴らしながら斎藤に近付き、大きく拳を振り上げ勢いよく下ろす。それに当たった斎藤の体は大きくのけぞる。無防備な体に幾度も殴る。「もう勘弁してください」と喘鳴交じりに斎藤が懇願するも、まだ攻撃は終わらない。もしかしたら死ぬまで殴り続けるのではないかと恐ろしくなるほど、田村は容赦がなかった。

 顔面がひどく流血している。ひどく痛々しくて私は目を背けた。

 もはや目すら開けられない斎藤に、佐倉は笑いながら言った。


「お前は小野健二を勧誘するために利用してただけだ。どこがこんな弱小チームのケツ持ちしてくれる事務所があんだよ。少しはない頭で考えろ。この阿呆が」

 無様なほど、斎藤は醜かった。結果、見当違いな復讐を掲げてそれをヤクザに利用されて、そして今これで手切れだといわんばかりの拷問に合わされた。そんな斎藤に憐れすら抱かない私は、酷い女なのだろうか。


 佐倉たちは今度こそ立ち去った。車のエンジン音がその裏口から届いた。きっと車をそこに停めていたのだろう。

 健二が顔の血をぬぐって、それから慌てて私に走り寄ってきて、抱きしめた。


「ごめん、全部僕のせいだ。僕のせいで君に酷い目に合わせた」


 私は悲しみの溜飲をとどめて笑った。彼に私の泣き顔を見せると、さらに彼に後悔をさせるのではないかと思ったからだ。泣き我慢の表情。それを見た健二は私の頬の、殴られた痣に触り、そしてそこに唇を触れさせた。私は驚いた。初めてされるキス。ドラマのようなロマンさはない。でも、私と彼とのファーストキスはこれでいいと思った。




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