二〇一一年五月某日。代々木公園にて。
「ほんとに行くのか。お前一人で」
バイクに跨ってエンジンを点ける健二。パーカのフードを被りその表情は見えない。
「やめたほうがいいって。相手も多勢の暴走族だ。夢ちゃんのことは残念に思う。けれどな、どんだけお前が喧嘩が強いからって無茶だ」
必死に健二を止めているのは北川。健二の肩を鷲掴みにして妨害している。
「うるせーよ」
ぎょっとすくみ上るような殺気。それを感じたのか北川は怯んで手を放す。
「怒りを抑えるんだ。怒りからは何も生まれないぞ」
まだこの時は総長の肩書を持っていなかった北川が言う。
「じゃあなんだ。このまま泣き寝入りしろというのか。そんなの出来るわけがない」
すると北川が頭を搔いて側にあった自身のバイクに跨った。
「付き合ってやるよ。喧嘩なんて全然してなかったからな。やってやろうぜ」
二人して道路を猛スピードで駆け出す。信号を無視して、車の間を縫うように走り、そんな瞬間に快楽を覚えていた。
上野へ向かうため高速道路に乗り込んだ。そこでメータのレッドゾーンまでアクセルをぶん回し、急き立てる心を表しているように走った。
上野動物園の方面にタイヤを滑らし、奴らの集会場へと行く。
とある神社。深夜の静けさに似合わない軽快なHⅠPHOPが絶えずスピーカーから流れ出している。階段の付近にバイクを止めて、急いで段を登っていく健二と北川。境内では二十人の若者と数人のギャルが楽しげに喋っていた。そいつらが二人に気付くと、顔を顰めた。
「お前……小野か。何しに来たんだ」
背丈の低い眼鏡の男が言う。
「お前たちが僕の妹をたらいまわしにして殺したことを知ってんだよ。散々他のチームにも自慢したそうじゃないか。あいつの妹は最高だった、ってしている憤慨健二の言葉に笑ったのは、賽銭箱にもたれかかっている大柄で丸刈りの男。
「それで、うちの『吐夢走夜』に殴り込みか。それもたった二人で。うちも舐められたもんだな」
「お前らをつぶすには一人でも十分なぐらいだ」
丸刈りが高笑いする。「そりゃ結構。おいてめぇら、ちょっとやってやれ」
まずは三人が健二に向かって歩み寄ってくる。そして距離が縮まったところで、一人が健二の鳩尾にジャブを繰り出す。それをかわしたときに健二の顔をもう一人の拳がかすめとる。そして別の一人が、バランスの崩れたところを狙って、大腿に蹴りを喰らわせようとするがそれも素早く回避。
それらの一連の動作を見切って、この三人がどういうタイプかを理解する。距離を取り、向かってきた一人一人を流れるように制圧していく。そんな離れ業、常人では到底出来ないだろう。何年も練習を重ねたボクサーが、試合で働く直観みたいなものを健二は持っていた。幾度も喧嘩を繰り返してきたからこそわかる、経験則。相手が何を考え、次にどんな攻撃を繰り出すかを本能で理解する。
三人を倒しても次々と殴りかかってくる男たち。北川も加担して殲滅していく。のびた奴らの腹を蹴りもう動けないことを確認してから最後の一人、今も悠然としている丸刈りに向いた。
いつの間にかギャルたちは消えていた。
「さすがだな。お前たちには敬意を持つよ」
「能弁を垂れんのもいい加減にしろ」
健二は丸刈りの腹部を殴った。それがあまりにも重たかったのか丸刈りはうずくまった。そして低くなった顔を蹴り伏せる。丸刈りはすぐにものびた。
「楽に死ねると思うなよ」
顔面を踏みつぶす。それを丸刈りは両腕で防いだ。
すると遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「おい、健二やべぇって。警察が来る」
健二は舌打ちして踵を返そうとした。すると、丸刈りが弱々しい声で、
「小野、次会ったら覚えとけよ。俺の名前は斎藤だ。いつかお前を俺が殺してやる。妹みたいにな」
唇を噛んで怒りを堪える。走ってバイクへと向かった。
バイクに跨り、スタンドを上げて走り出す。サイレンが聞こえるのとは逆方向から帰る。
健二は強い意志を持った声で、「殺すのは僕だ」と言った。だがその言葉は風で跡形もなく消えた。
バス停のベンチでそんな壮絶なことを語る健二は、とても辛そうで見ていられなかった。
事件のことはなんとなく知っていた。中学一年生の女子児童が不良グループに強制わいせつされ、後に殺害された。だが、犯行に及んだ人たちは逮捕されたはずだ。それを健二に訊ねると、
「捕まったのは斎藤が用意した替え玉だよ。『吐夢走夜』には一切警察のメスが入ってない」
唖然としてしまった。そんなことがまかり通るのか。
「僕のせいで……妹は死んだ。僕が呑気に犯罪なんてしてる陰でそんなことが起こって、自分が許せなかった。だからしばらくして僕は族から抜けたんだ」
そんなことない、自分を責めないでと言おうとしてその言葉を咄嗟に呑み込んだ。私はそんなことを言えるほど偉くもなんともない。健二とはただの知り合いだ。彼を励ます資格なんて、持っていない。
彼は私の瞳を見つめた。それは何かを訴えかけるようで。ひしひしと健二の想いが伝わってくる。それに心がざわついた。
「――ねぇ、僕は君の目標になれないかな? 君がずっと憧れを抱いて人生を投げ出さないための存在に僕はなりたいんだ。おこがましいかな? 僕じゃ無理かな」
儚げに健二は言った。私は唇を噛んだ。卑怯だ。そんな風に言われたら、断れないじゃないか。健二は好きだと告白しているのだ。私もそれに応えないといけない。
私は頷いた。すると彼は照れ笑いを浮かべた。
でも、もしかしたら彼は妹の夢と私を重ねて、夢の代わりを私に求めているだけなのかもしれない。そうなら嫌だ。「妹さんの代わりは嫌ですよ」と小さな小さな声が漏れ出た。その声は健二には届かなかった。