二〇十二年六月二十日。健二と出会った翌日。雨も夜中のうちにさっぱりやんで、太陽の燦々とした光がカーテンから漏れ出ていた。
私は自然に時計を見る。六時三十分。現実から逃げられる夢から覚めてまた絶望の一日が始まった。目元を手で覆った。もう一度夢に還りたい。だけどそれは出来ない。いつだって夢には終わりがあるものだ。それは冷酷で、でも当たり前だから仕方ない。
扉がノックされて母が部屋に入ってくる。
「江美、もう朝ご飯出来てるわよ。早く来なさい」
食欲なんてない。だけど母の前では食べなくてはならない。
「わかった。今行く」
母が去っていったのを確認してから、重い重い溜息をついた。ああ、鬱陶しい。
自室の二階から一階のリビングに向かう。部屋ではソファに腰掛けてテレビを見ている弟の高弘と、その高弘に気味が悪いという目線を投げかけながらキッチンで食器を洗っている母。これがいつもの光景だ。
ダイニングテーブルの側の椅子に座る。もう置いてあったトーストと二枚の目玉焼き。トーストにザクザクとバターナイフでバターを塗る。それを齧って味がすることを感じる。健二のおかげで食を少しは堪能出来るようになった。
「今度の中間テストがんばりなさいよ。お母さん、期待してるから」
母は平然と言う。それに「がんばるね」とだけ伝えて母を満足させる。
私がいじめられていることを母は知らない。小学生の頃からずっと隠し通してきた。最初はそれを告白するのが単純に嫌だったから。自分が他人から虐げられていることは恥ずかしいと思っていた。今は高弘がとある理由で中学を不登校になって、それにあからさまに嫌悪感を抱いている母のさまを見て、一生言えないなと感じた。母は完璧主義でいつも絶対を求める。自身にも他人にも、そして家族にも。仕事は出版関係で、役職は営業本部長。重責の仕事を整然とこなす母は職場では尊敬されているらしい。だからだろう。自身が出来ることを子供に求めてしまうのは。出来て当たり前。それが母の考えで信念だから。
朝食を済ませ、もう一度自室に戻り制服に着替える。斜めかけバッグを肩に背負って家を出る。
陽光が一瞬網膜に焼き付いた。まぶしさを感じて俯く。そして音楽プレイヤーを取り出し、好きなアーティストの楽曲を再生してイヤホンを耳に差す。イントロの軽快なリズムと共に歩き出す。
「なぁ、こいつの顔面にこれ押し付けたらさすがにまずいかな?」
笑いを含んだ口調で引き締まった体格の男子生徒が、手に持っていた煙を出し続ける煙草を振った。横にいた夏木が、
「いいんじゃない。どうせ綺麗な顔でもないんだし。こいつの根性叩き直しちゃってよ」
今から根性焼きと称して、消えない火傷の痕を残されようとしている。だが、それでも私は構わないと思った。母への言い訳に困るが、この場が早く終わるならこいつらに心臓を差し出してもいいぐらいだ。
気持ちの悪いにやつきをしながら煙草を近付けてくる。その間もずっと、男子生徒の薄汚れた瞳を見つめていた。
残り数センチとなったとき、男子生徒の腕を掴んだ誰かが言った。
「おいやめろ。この子に手を出すな」
男子生徒は一瞬で表情が引き攣り、怯えだす。まるで天敵に遭遇した動物のような変わり方だった。今までの傲慢さはどうした。
腕が伸びている方を見ると、健二が立っていた。健二が止めてくれた。また出会えた。無感情だった心が様変わりして、春のような温かさに変化する。
「お、小野じゃねーか。どうしてここに……」
健二はキリと鋭い眼光を飛ばした。それは不良が他人を威圧するときにする、自分を強く見せるための行為だが、なぜか健二はそれをし慣れているように見えた。どうしてだろう。
「次この子に何かしてみろ。その時はわかってるよな」
使い古された脅し文句。
それが男子生徒には効果があったようで夏木を引きつれて走り去った。私はしばし呆然とした。すると彼が手を差し出してくれる。私はその手を取ってよろよろと立ち上がる。
「大丈夫? 怪我はない?」
「はい……」
彼の背中にはリュックがあった。まだ昼休みなのにもう下校するのだろうか。
彼と一緒に昇降口へと向かう。着くまで互いに無言だった。彼が、「じゃあ」と言って立ち去ろうとしたとき、咄嗟に言葉が漏れた。
「あの——」
「どうしたの?」
ゆっくりと呼吸して、それから言った。
「私の名前、一ノ宮江美って言います」
すると彼がくすりと笑って、ありがとうと呟いた。そして私の頭に手を置いて軽く愛でてきた。
「また会えるといいね」
今度こそ去っていった彼を、視界から消えるまで見つめていた。胸をざわつかせる新たな気持ち。うまく表現できないけど、とにかく昂揚して、いてもたってもいられない、そんな感情。
それが恋だと知るには、少しの時間がかかった――。
◇◇
一週間が経って、私へのいじめがぴたりと終わった。陰口などはあるが、目に余るような暴言や暴力などがなくなったのだ。
その日の休み時間。次の授業の準備をしていると目の前に夏木が現れた。憤った表情だ。
「ちょっと来て」
断ると面倒なことになりそうなので素直に従うことにする。女子トイレに入るといきなり怒鳴られた。
「あんた、健二とどういう関係なの!」
夏木の問いに自分でもわからないと思う。健二とはついこの間出会ったばかりで、友人と呼ぶには関係が遠いし、知り合いと言うには距離が近いと思う。だって自殺を止められたのだから。
「わからないです」
「はあ! そんな嘘信じてもらえると思ってんの?」
夏木は腕を組んで威圧するポーズ。まるで海外の児童文学に登場するような悪の女王だ。少しすくみ上る気持ちだった。
「まあいいわ……でも一つ忠告してあげる。あんた、健二と関わると殺されるわよ」
夏木は踵を返し去っていった。私はその言葉を吞み込めないでいた。どういう意味なのだろう。健二が私に危害を加えるということなのだろうか。けれどそれは考えにくいし、そもそも考えたくもなかった。きっと夏木の嫌味に違いない。だから気にしないでおこう。
放課後。生徒たちは駅のプラットホームでも所構わず喧騒を立てる。周囲の人はそのことにすっかり慣れている。私は駅のベンチに座って、音楽プレイヤーを取り出そうとした。が、声をかけられてその手を止める。誰だろうと思って横を見ると健二が立っていた。
「江美ちゃん、また会ったね」
健二は私の隣に座る。並んでベンチにいるだけで興奮した。胸が高鳴って仕方ない。
「あれから嫌がらせはない?」
「はい。全部健二君のおかげです。ありがとうございます」
きっといじめが終わったのも健二があのとき止めてくれたからだ。これで学校生活も大分と楽になる。
「——健二か」
近くから野太い声が届いた。誰が健二を呼んだのだろうと気になって視線を移すと、明らかに堅気ではない男性が立っていた。
白いパーカの袖はまくられていて、そこから覗かれる刺青。両耳に黄金のピアス。額に走る深い傷跡。きつい目付き。まるでヤクザだ。
「相原先輩、お久しぶりです」
健二は軍人のように直立し頭を下げた。こんな危ない人を先輩と呼ぶ関係ってどういうこと。
「お前が“族”から抜けて皆寂しがってるらしいぜ。もう戻る気はないのか?」
「はい……」
「そっか。あ、電車来たからもう行くわ。元気でな」
ちょうど来た電車に乗り込んだ相原という男性。その人を無表情に見ていた健二。そこでようやくわかった。相原と健二は同じ“暴走族”に所属していたのだろう。そこで親しくなった。
私は不良が嫌いだ。社会に迷惑をかけることでしか自己を主張できない馬鹿共。だけど、なぜか健二が不良だったと悟っても不思議と嫌悪感は持たなかった。
次に来た電車に私たちは乗り込む。東京都内ということもあるし、学生の帰宅ラッシュもあって車内は満員だった。混雑している人混みの中で私は健二の側に立つ。その健二がかすれた声で——。
「これでわかっちゃったよね。僕は暴走族にいたんだ……。怖いかな?」
と悲痛に言った。それに私は慌てて否定した。
「そんなことないです。不良って苦手だけど健二君は大丈夫です」
なんか変な言葉になっちゃった。私の気持ち、伝わってないよね……。
そんな不安は杞憂で、健二はぼうっと遠くを見つめて考え事をしているようだった。それに安心すると同時に少し残念だった。
自宅の最寄り駅に着く。健二に別れを言って車両から降りる。
立ち止まって、走り去る電車を見ていた。健二はどこへ行くのだろう。そして今までどんな人生を歩んできたのだろう。健二の全部を知りたいと思って、それを慌てて否定した。そんな感情、気持ち悪いだろうから。