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第1話 自殺未遂

 踏切の警報器が響き、鼓膜にその残響が残る。

 冷たい、孤独を感じさせる雫が、制服のシャツに染みを作る。

 私――一ノ宮江美は、とにかく憂鬱で、視界に靄がかかっていて、そして絶望を感じていた。

 早く死んでしまいたい。この酷い人生から早く解放されたい。

 電車があと数分で目の前を通り過ぎる。その際に飛び込んで、死んでしまおう。きっと痛みなんて一瞬だ。それさえ耐えればきっとエデンの園に戻れる。アダムとイブが追放された楽園に帰れるのだ。そう思うと、死のうとしているのにどこか救われているようで。


 ゴウン、ゴウンと電車が踏切に侵入してくる。私を解放してくれる天使の乗り物。

 急くように足を進める。タイミングが肝心だ。早すぎても遅すぎても駄目だ。

 そして、飛び込もうとして——何故か自重が後ろに傾いた。バランスを崩し、濡れたアスファルトに尻をついた。水たまりに浸かった部分のスカートが大きく変色する。

 私は呆けた。もうとっくに電車は通りすぎてしまった。何が起きたのだ。


「死ぬなよ、死んじゃあ駄目だ」


 切迫した声。声のした方向に顔を向ける。まるで少女のような中性的な顔をした綺麗な顔面の、私と同じ学校の制服を着た少年が血相を変えて見ていた。そこでようやく事態がわかった。私は飛び込む寸前に、この少年に腕を引っ張られて死ぬのを止められたのだ。


「どうして……」


 どうして死なせてくれなかったのだ。誰だかわからないけど、余計なことしてくれちゃって。

 少年は持っていた傘を、私の上に差した。


「何かあったの?」


 と優しく訊いてきた。その言葉の音は甘く、それが私の傷んでぼろぼろの心を抱擁した。

 この時、私はどうしてか少年に助けてもらいたいと思った。先ほどまで死を決意していたのに、一度優しくされたぐらいでこの世に未練が生まれるなんて。でも、助けを求めようにもそれをした経験があまり、いやほとんどなかったので何を言えばいいのかわからなかった。

 口ごもる私を見て、少年は淡く微笑した。安心してよと言うように。


「近くの喫茶店で話を聞こう。立てるかな?」

「は」


 なぜ喫茶店に行かないといけないのか。なんの話を聞くつもりなのだと、不思議に思う。

「嫌なことがあったから死のうとしてたんでしょ? 同じ学校だし、僕でよければ話ぐらい聞くよ」

 なおも優しさを譲渡してくる少年に、私は訳がわからなくなった。今まで散々虐げられてきた人生の中で、強い優しさに触れることがなかったから困惑したのだ。

 言葉は出せないけど、立ち上がるさまを見せて肯定の意味を伝える。 


 ゆっくりと歩き出す。少年は濡れても構わず私の上に傘を向けて、同じ歩幅で進んでくれる。気力などほとんどない状態、たどたどしい歩み方なのにそれに合わせてくれる。

 十分ほどで、すけたロマン喫茶の前に着いた。店の前のガラスケースの中に様々な色褪せた食品サンプルが並んでいる。

 傘置き場に傘を置いて、店内に入る。木の香りとメープルシロップの匂いが同時に鼻腔をくすぐる。なぜそんな甘い匂いが香るのだろうと疑問に思って、視線を巡らすと奥の席にパンケーキを食べている中年のサラリーマンがいた。


 店員がそのサラリーマンの近くの席に私たちを案内する。この席からは、今も神の涙のような悲劇の雨が窓越しから見える。雨粒がガラスに張り付いていた。

 少年は店員にホットココアを注文した。飲料なのでものの数分で届く。机に置かれた湯気が昇り続けるホットココアを、少年は私に差し出した。


「温かいものを飲むと自然に心が落ち着くから」


 そう言われて二口のどに通す。食道を通って胸の内側を熱さが一瞬支配する。すると凍え切った心がじわじわと溶解していく。ぽつんぽつんと涙が机に垂れる。私はごめんなさい、ごめんなさいと呟いた。誰に対しての謝罪なのかはわからないが、涙がぬぐってもぬぐっても次々と溢れる。

 少年は黙って泣きやむのを待ってくれた。


 悲しみの累積がこれ以上出ないように塞き止めて、息をつく。

「僕、雨が好きなんだ。冷たく静かで、でも日常に潤いをもたらしてくれるところがね」

 窓を見つめながら少年は言った。横顔もとても美しく、しかしどこか哀しげであった。それから少年は私に向いて、


「何があったのか聞かせてほしい。話すだけでも楽になるはずだから」

 と言い微笑んだ。私はそれにどう応えるべきかわからなくて俯いてしまった。でも、語るべきだ。この少年にはきっと理解してもらえる。私の劣悪な過去を。


◇◇


 いじめられるなんて思いもしなかった、と言えば嘘になる。

 昔から協調性が低く、いつも周囲となじめずに浮き彫りになっていた。小学校低学年頃から、孤立することが当たり前になっていた。クラスメイトからの嫌がらせに、ただ耐えて、耐えて、耐える毎日。

 鋏でずたずたに切られた上履き。トイレに捨てられ汚れたランドセルや教科書。もはや常套句と化している私への暴言。そのどれもが私を激しく苦しめたが、時とともに慣れていった。痛め付けられることが私の日常だったからだ。


 そして高校生になり、だけど環境が変わっただけで周囲の私へのいじめはなくならなかった。

 そんな時、ある女子生徒が私に友好的な笑みを湛えて近寄ってきた。名前は織田夏木。右耳に十字架のピアスを付けていて、笑顔がどこか愛らしい。

 夏木は色んな話をしてくれた。昨日見たテレビの話。好きな俳優の話などを語る夏木の表情はいつも楽しげで、私の心を癒した。そんな彼女ともっと仲良くなりたい。いつしかそう願うようになって、書店屋で会話の本を買い、勉強した。コミュニケーションがうまくなりたい。すればきっと彼女と友達になれるはずだから。


 会話のテンポ。言葉の選び方。本で読んだ内容を実践しても、円滑に会話が出来ない。どこかたどたどしくなってしまう。そのせいだろうか。夏木の態度が段々しおらしくなっていったのは。

 夏木は私に興味をなくし、私をいじめる側へと移った。罵詈雑言を並べ立て、嫌味たらしく冷笑した。そんな夏木の態度に、私の心は深く抉り取られた。今までも散々苦言は言われてきた。けれども、夏木と一時的に親しくなって、そのせいで耐えられなくなったのだろう。


 自室の机に置かれた会話の本を見て、激しく怒りが沸き上がった。裏切った夏木にも、他人を信用してしまった自分にも腹が立った。本を机から落として、そして笑いが込み上げてきた。

 もうどうでもいい。死んでしまおうと——。


◇◇


「そんなことがあったんだね……」

 事の全てを少年は黙って聞いてくれていた。

「織田夏木の悪い噂は聞いたことがある。彼女は孤立している人とわざと親しくなったところで、その人を精神的につぶすんだ。僕と夏木は同じ中学でね、その頃からそういう悪い趣味があったんだよ」


 私は絶句した。夏木の笑みは全てほくそえんでいただけだったのか。仲良くしていたのも策略か。私はただ騙されていたんだ。

 スカートをきゅっと握りしめる。そうしないとまた涙がこぼれそうだったから。

 少年は真面目な顔で、聞いてほしいんだと言った。


「君にこれからも生き続けてほしい。十六歳で人生を投げ出すなんてもったいないよ。これから幸せなことがきっとあるはずだから。だからね、生き続けるために人生の目標を持つというのはどうだろう。考えてくれないかな」


 涙でかすんだ視界で少年の顔を見る。まるで神父のような、教え導く表情をしていた。

「僕の名前は小野健二。また出会えたら、その時もまだ辛さを抱えていたら話をしよう」

 少年——小野健二は柔和な表情を浮かべて、

「その時は、君の名前が知りたいな」

 と言い残し、会計をして店を出ていった。一人残された私。彼から紡がれた一つ一つの言葉が沸いて止まらなかった自殺願望を塞き止めた。

 もうぬるくなったココアを口に含む。先ほどまでは温度しか感じられなかったが、強い甘味が舌を舐めまわした。そのことに安堵を覚えた。ようやく味覚が戻った。少しは正常な人間に近づいたのかもしれない、と。


 全て飲み干し、私も店を出る。まだ絶えず誰かを嘆くような雨が降っていた。もう濡れたくはないな、と思ってふと傘置き場を見やると彼が使っていた傘が置かれていた。その傘はなんの変わり映えもない普通のビニール傘なのに、どこか輝いて見えた。彼に感謝してその傘を開く。もしかしたら私はあの悲しみの雨を防げる力を、彼から授かったのかもしれない。そう予感した。


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