いつ魔物が出てきても対応できるよう剣を抜き、『気配察知』を最大に引き上げる。
「うっ」
結果として感じ取れた濃密な
胃が重い。
足が重い。
気分が重い。
だが、ここまで来て引き返すのも違うだろう。
しばらく洞窟内を進んでいると、だんだんニオイがきつくなってきた。鉄臭いというか、血のニオイというか……。
(もしや、この赤黒い水は血か?)
そんなことを考える俺だが、あり得ないと首を横に振る。これだけの量の水が血だとしたらどれだけ巨大な生物なんだよ、と。水に溶け込んでいるとはいえ、その水から血の匂いが漂うほどの濃さだとすると……。
「おっ?」
そんなことを考えながら進んでいると、突如として開けた場所に出た。ドーム状の空間には無数の鍾乳石が垂れ下がり、赤黒い水が溜まって池のようになっている。
その、中心。
池の真ん中あたりには巨大な岩があり――その岩の上に、超大型の生物が横たわっていた。
「おいおい、マジかよ」
――ドラゴン。
遠くからでもハッキリと分かる巨大さ。威圧感。生物としての本能か、俺の足はガクガクと震え始める。
(……えぇい! 情けねぇ!)
自分で自分の太ももを何度か殴りつけると、震えは少なくなった。まぁ完全には消え去りはしないが、歩くことくらいは出来るだろう。
(よし、落ち着け。こういう、ときは、深呼吸、だ)
深呼吸。
深呼吸。
深呼吸……。
都合三回の深呼吸をしてやっと、俺はドラゴンを観察する余裕が出てきた。
前世で言えば西洋のドラゴンに近い見た目をしている。つまりはこの世界の絵画などに描かれるスタンダードな姿のドラゴンだ。
体長は……どれほどあるだろう? 身体を横たえている状態で、すでに王都の城壁に匹敵するくらいの高さがありそうだ。首から尻尾までの長さなど想像すらできない。
その巨体を支える後ろ足もまた巨大であり、俺などいとも簡単に踏みつぶされるだろう。人が、意識しないまま蟻を踏みつぶすように……。
鱗の色は白。だが、どこかにケガをしているのか赤黒く染まっている部分もあり――
「……お?」
ドラゴンの背中。
あまりにも巨体なせいで見逃しそうになるが、剣が一本刺さっているようだった。
刀身はほぼ全てドラゴンに突き刺さっているので柄と鍔しか見えないが、なんとも装飾過多な剣だ。子供が絵に描きそうな剣とでも言おうか。
「…………」
なんとなく、だが。
あれは
どういう理屈かは俺にも分からないが……まぁ、深く考える方はないか。そもそもケガをしている生き物を見かけたら助けてやりたいと思うのが人情だからな。羽根を痛めた鳩とか。釣り針が刺さったカモメとか。
そんなことをつらつらと考えていると……ドラゴンの瞳が、俺の姿を捉えた。
『――――』
怒りも、敵意もない。俺に対する圧倒的な無関心を感じさせる瞳に、俺は生物としての『格』の違いを思い知らされた。
これは一つ対応を間違えれば死ぬし、対応を間違えなくても、あっちの気分一つで殺されるな。あぁ、やだやだ。
ここで大人しく死を受け入れるほど達観はしていないので、俺はドラゴン相手に交渉してみることにした。
「おっと待て。俺は敵じゃない」
敵意がないことを示すように剣を投げ捨てる。まぁ、正直ドラゴン相手に剣なんて振るっても何の意味もないからな。持っていようが捨てようが意味などない。
「俺の名はアーク。近衛騎士だ。……よく分からねぇが、痛そうだな? その剣、抜いてやるよ」
今なら分かるが、ドラゴンの周りの池が赤黒いのは流れ出た血が溶け込んでいるからだろう。
そして、おそらく。あの村の水が汚染されたのもドラゴンの血が原因だ。
そりゃあ、ドラゴンの血なんて(この世界の物語では)不死になる効果があったり、逆に半神の英雄すら殺す猛毒だったりするからな。いくら水で薄まっているとはいえ、人間が飲めば毒となるだろう。
そんな、おそらくは毒であろう池の中に俺は足を踏み入れた。
別に毒無効のスキルがあるわけではない。
回復スキルを持っているわけではない。
ただ。
池の深さは、俺の腰まで浸かる程度。もちろん急に深くなる可能性もあるので慎重に進む。
『――ガァアアァアアァアアアッ!』
「おう!?」
洞窟を揺るがすかのようなドラゴンの咆吼。いや実際揺れているのか鍾乳石が何本も池に落ちてくる。
その『圧』に負け、足を滑らせた俺は転んで池にダイブしてしまう。
ぎゃあ!
生臭い!
鼻の中に水が入った!
もがもがと
「よし落ち着け! 俺は敵じゃない! 大丈夫! 剣を抜いたらすぐに帰るから!」
『…………』
ドラゴンが訝しげな顔をする。
まぁ当然か。
なんで見ず知らずのドラゴンの剣を抜いてやろうとしているのか、俺にだってよく分からないのだから。
理屈で言えば剣を抜いて傷が癒えればもう水が汚染されることはないだとか、ドラゴンに恩を売れるなどが考えられる。
だが、そうじゃない。
俺はあの剣を
どうせ帰ったところで夜中に気になり、またここにやって来るんだ。俺はそういうヤツだ。自分のことは自分でよく分かっているんだ。
『…………』
そんな俺の非合理的な考えに呆れ果てたのか、ドラゴンは首を岩の上に置き、目を閉じた。勝手にしろってことか?
そうこうしているうちにドラゴンの足元まで到達。
……あ、これ、どうやって登ればいいんだ?
試しに鱗を掴んでみるが、スベスベしているのでクライミングは出来そうにない。しまったなぁ。ミラやシャルロットくらいの魔術師なら宙に浮かぶことも出来そうだが……。
何度も跳躍して上に行くか?
どうしたものかと悩んでいると、ドラゴンが呆れたようにため息をつき、俺の足元に尻尾の先端を移動させた。
この上に乗れってことだろうか?
じゃあ遠慮なくと俺が尻尾の上に乗ると、ドラゴンは尻尾を持ち上げて、突き刺さった剣のすぐ近くにまで俺を移動させた。
こんなに器用に尻尾を動かせるなら自分で剣を抜けば――と思った俺だが、近くで見て納得する。
ドラゴンに突き刺さった剣。その周辺が、溶岩のように焼け溶けているのだ。
おそらくドラゴンにとって特効があるんだろうな。だからこそ尻尾で抜こうとすると、尻尾の方が溶けてしまうと。
「…………」
こんな剣を素手で握って大丈夫か?
ちょっと不安になる俺だが、ここまできたらもう逃げるなんて選択肢はない。覚悟を決め、剣の柄を両手で握り、引き抜くためにドラゴンの身体を足で踏みしめたところで――
つるっと。
足が滑った。
そりゃそうだ。
手で掴めないくらいツルツルの鱗なんだから、足を載せれば滑るだろう。というかさっき自分でも『足が滑りそうだ』って思っていたじゃねぇか!
「なんで俺は肝心なときに抜けているかねぇ!?」
猛省する暇もなく俺はバランスを崩し、ドラゴンの傷口から吹き出す血を浴びながら、そのまま池にまで落っこちた。
もしかしてドラゴンが落ちないよう尻尾を動かしてくれるかなと思ったが……そんなことはなかったぜ。
再び襲い来る水の生臭さ。
二度目なのでさっきよりマシだが、それでも俺は藻掻きに藻掻いて――
「……うん? 剣?」
ドラゴンに突き刺さっていた装飾過多な剣。
それが今は俺の手に収められていた。
まぁつまり、ドラゴンから剣は抜けたようだ。
「…………、……よし! 一件落着だな!」
よかったよかった。さぁ帰るか。あ、でも帰るには転移魔法が必要なのかと俺が考えていると――
『――
ドラゴンが、俺の目の前まで首を伸ばしてきた。