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 思い切って、あなたは手を伸ばす。小刻みに震える指が彼の頬に触れかけた、その時。


 ぱちん、と。


 唐突に眼のまえの彼が消えてしまった。それどころか、あなたを取り巻く環境が丸ごと様変わりしてしまう――もしくはあなただけが違う場所に瞬間移動したのかも。変てこなファンタジー。時間と空間を手玉に取り、自由にクラフトしちゃうのは夢の十八番芸だ。


 あなたは眠りから覚めかけているようで、頭の片隅に「もしかしたら、これは夢なのかもしれない」という考えが芽生える。だってこんなの、いかにも夢らしい不条理さ、不親切さ。もっと映画のトランジションみたいな配慮があってもいいのに。



(ここは……学校の、図書室……?)


 あなたは今、放課後の図書室にいる。他には誰もいない。オレンジ色の静謐せいひつな空間。窓際の席に座り、イケメンの彼氏が部活を終える下校時刻まで、宿題をしながら時間を潰している。


 グラウンドで練習する運動部の掛け声と、夕陽に向かって帰っていく鳥の鳴き声。それが妙にぼんやり聞こえる。


 あなたは英語の教科書に蛍光ペンを引く手をとめて、窓の外を見る。あなたは自分を、運命にあらがえない囚われのお姫様と重ね合わせてみる。


(お姫様なんて、あたしのキャラじゃないけど)


 人気者でイケメンの彼氏が部活を終えるまで、あたしはここから動けない。なんとなく分かる。すっかり日も沈んだ頃、彼が図書室の重い扉を開け、迎えに来てくれる。あたしは「寂しかった」なんて呟き、手を繋いで下校するんだと思う。彼の話を興味津々に聞きながら、大げさなリアクションを――あくまで品行方正を乱さず――取らないといけないんだ。


 毎日、その繰り返し。これまでも――きっと、これからも。あなたが心から笑うことなんて滅多になくて、大きな声でわがままも言えなくて、いつも大人しくして、怒られないよう必死になって。


(あーあ、なんか全然楽しくないな……)


 なんだか惨めに思えて、ひっそりため息を吐く。


 あたしの人生って、こういう感じだっけ。こんなに窮屈だった? 違うよね?……もう、すっかり忘れちゃった。あなたの耳もとで不安が囁く。夢から覚めても、同じような現実が待っていると。


 あなたの瞼の裏には、未だに謎の彼の残像が貼り付いていた。いかにも気の抜けた笑みを浮かべている彼は時々あなたのほうを見、目があった瞬間恥ずかしそうに顔を反らすというやり取りを、永遠繰り返している。それは夢とうつつの境界で、瞬きをすれば消えてしまいそうな儚さで。


(どこに行っちゃったんだよ。名前くらい教えてくれてもいいじゃん、ばか……)




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