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第22話 一カ月前のこと

 某病院の長い廊下を一人歩いていく。


 時々看護師さんとすれ違うくらいで、あまり人の出入りは多くない。

 シーンと静まりかえる廊下に、私の足音が鳴り響く。

 床や壁に目をやると、新築同然のように光り輝く様子が目に入る。埃一つ落ちていない。

 時折目にする壁に掛けられている高そうな絵画も、人の目に触れる機会は少なそうだ。


 ここは都内でも有数の大病院。その最上階に、彼の病室はあった。


 大きなエレベーターで最上階まで上がる。

 エレベーターのドアが開くと、私は窓から差し込む太陽の光に目を細めた。

 目の前に広がる前面ガラス張りの窓、そこからは街を見渡すことができる。


 夕焼けに染まったオレンジ色の光が、街を照らしている様子が覗える。

 最上階から見る景色は絶景だったが、そんなものを楽しむ余裕は私にはない。

 慣れた足取りで、目的の病室へと向かっていく。


 廊下のつきあたりに一つだけぽつんと存在しているのが、彼の病室だ。


 病室の扉の前には黒服の男性が一人立っている。

 その男性が私を一瞥いちべつすると、軽く頭を下げた。私も会釈えしゃくをし、病室へと入っていく。



 ベッドには男性が眠っている。

 私は彼を一瞥すると、窓際にある花瓶を手に取った。それに水を汲んできて持ってきた花をそっと生ける。

 花瓶を元の場所へ戻した私は、ベットの横にあった丸椅子に座り、彼の顔をじっと見つめた。


 中村なかむら透真とうま

 やはり似ている……ヘンリーに。


 ヘンリーを見たとき、心底驚いた。

 だって、ヘンリーが現れる少し前に、私はこの男性に命を救われていたのだから。


「あなたたちは一体、誰なの?」


 目を覚まさない男性に向って問いかける。

 当たり前だが返事はない。


 彼は植物状態で、一か月程ずっと目を覚ましていなかった。



°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°



 あれは、一か月前のこと……。


 学校からの帰り道。

 その日は組織の大切な定例会議により、龍は私に付き添っていなかった。

 そんなときに限って事件は起こるものだ。


 私がいつもの通学路を歩いていると、突然、暴漢に襲われた。


 こういうことが多いから、龍はいつも私に付き添ってくれているのだ。

 私が如月組の孫娘ということを知って、襲ってくる連中が結構いる。そのために私は訓練を受けてはいるが、腕っぷしの強い男たちに太刀打ちできるかどうかは定かではない。


 そんなに簡単にやられる私ではなかったが、やはり日頃の気の緩みがあだとなった。

 いつも龍が傍にいることに慣れ過ぎていたのだ。


 油断していた私はその攻撃を避けきれず、みぞおちに一撃を食らってしまう。


 しまった!

 そう思った時はもう手遅れだ。

 衝撃によろけた私の体を、男が軽々と持ち上げる。


 そのとき、彼が現れた。


 突然現れた謎の青年が、男に向かって思いっきりアタックをしかけた。

 男は不意を突かれ動揺したのか、私を落としてしまう。


 すかさず、その青年が私の方へ駆け寄ってきて、「逃げて!」と叫んだ。

 次の瞬間、彼は男に大きく蹴り飛ばされる。

 物凄い勢いで壁に激突した青年の頭から、一筋の血が流れていった。


「きゃーーー!!」


 私が叫ぶと、男はたじろぎ、慌てたように逃げ出した。

 逃げる男のことなんか目にも留めず、私は意識を失って倒れている青年を呆然と見つめ続けていた。

 次から次に起こる出来事に、私の頭はついていかず、どうしていいのかわからない。


 私が呆然と座り込んでいると、周りの人たちが慌て騒ぎ出した。


 近くにいた人が救急車を呼び、青年を介抱してくれている。

 ふと我に返った私は、意識のない青年の側に駆け寄り、声をかけ続けた。

 しかし、その青年に反応は一切見られなかった。


 救急車が到着し、彼が担架に乗せられ運ばれていくのを、私はただ茫然と見つめていた。


「私も行きますっ」


 自然と叫んでいた。

 そのまま私は、青年と共に車に乗り込んだ。




 病院に到着すると、すぐに青年は手術室へと運ばれていく。


 閉じられた扉を見つめ、私はどうすることもできずにただ青年の無事を祈り続けた。

 しばらくすると彼の両親が到着する。


「君が、透真が助けたっていう?」


 彼の父親らしき男性が声をかけてきた。

 その後ろでは、母親と思われる女性が物凄い形相ぎょうそうで私を睨みつけている。


 彼女は私の側へ駆け寄ってきたかと思うと、その手が高く振り上げられた。


 パンッ!


 静かな廊下に、乾いたその音だけがやけに鮮明に響いた。


「あなたのせいで、透真はっ……」


 声を震わせながら涙をこぼす母親の瞳には、恨みや怒りの感情が滲んでいた。

 そんな母親の肩に手を置いた父親は、そっと彼女を抱き寄せる。


「ごめんなさい、私……」


 私の声も体も、震えていた。

 頬が痛い……でも、心はもっと痛かった。

 ゆっくりと視線を上げる。


 私を憐れむように見つめた父親が、そっとつぶやいた。


「もういい、君は帰りなさい」

「でも……」


 私の言葉を遮るように、母親が叫んだ。


「あなたの顔なんて見ていたくないのよ!!」


 ズキン……。

 言葉が刺さり、私の心は激しく痛んだ。


 母親の言うことはもっともだ、私の顔なんて見たくないだろう。

 そう思っても、帰ることなんてできるはずがなかった。


 母親たちの視界から遠ざかった廊下の隅の方で、私は彼の手術が終わるのを待つことにした。



 数時間後、手術室から出てきた医師が彼の両親と何か話している。

 私はそっと医師の声に耳を澄ました。


「手術は成功しましたが、彼の意識が戻りません。大変申し上げにくいのですが、いつ意識が戻るかわからない状態です」

「そんな……」


 母親がその場に崩れ落ちると、その隣で父親も項垂れるように肩を落とす。

 私はどうしていいかわからず、その場に立ち尽くしていた。


 すると、まだ私がいることに気づいた母親がこちらへやってくる。

 鬼のような形相をした彼女の瞳は、涙で溢れていた。


 私の前に立った母親は、もう一度私の頬をおもいきり叩く。


「あなたのせいよ!! どうしてくれるの……私の透真を返して! 返してよ!!」


 母親は私の両肩を強く掴むと、激しく揺らした。


 彼女の手がゆっくりと私の首元に伸びてくる、その手はかすかに震えていた。

 私はそっと目を閉じ、ピクリとも動かない。


 恐怖を感じていないわけではない。ただ、今は母親の気持ちを受け止めたかった。


「やめなさい! 彼女だって被害者なんだ。

 透真がしたことだ……彼女が助かってよかったじゃないか。

 それに意識だって、またいつか取り戻すかもしれない」


 母親を私から引き剥がした父親は、静かに私を見つめる。

 そして、そのときできる精一杯の笑みを作り、私に微笑みかけた。


「すまなかった……彼女は今興奮しているんだ。

 君も、あまり自分を責めないように」


 父親は今にも崩れそうな母親を優しく支え、私に背を向けた。


「本当に、申し訳ありませんでした!

 ……ずうずうしいとは思いますが、またお見舞いに来ても……いいですか?」


 私は恐る恐る尋ねた。

 こんなこと言える立場ではないことは重々承知している。それでも、私の気持ちが収まらない、このまま終わることなんてできなかった。


 母親はもう疲れたのか、何も言ってこなかった。

 虚ろな目で虚空こくうを見つめている。


 父親が少しの沈黙のあと、私の問いに答えた。


「少しだけ、日にちを空けて来てほしい。……君の名前は?」

「っ如月流華です」

「如月?」


 父親は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに力なく微笑んだ。


「わかった、伝えておくから、受付に君の名前を言えば案内してくれる」

「ありがとうございますっ!」


 私は深々と一礼し、二人の背中をいつまでも見送っていた。


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