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第3話 奪われた唇

「僕の名前は、ヘンリー・エドワード・ローレンス。ヘンリーと呼んで」


 彼は可愛い微笑みを向け、平然とそんなことを言ってきた。


 はい? やっぱりこの人変だ。どこかで頭でも打ったのだろうか。

 いや、そもそも風呂から出てきたんだから、人間じゃないのかも。

 宇宙人とか? いや、でも地球人っぽいし。

 まあ、確かに外国人っぽい顔してる。うん。あ、外国人さんはいろんなところから出てこられるとか?

 いや、そんな話聞いたことないよ。


 私の頭の中はプチパニック状態だ。


 呪文のように、落ち着け、と自分に唱えながら、私はヘンリーに笑顔を向けた。


「うん、ヘンリー。あなたはなんでお風呂から出てきたの?」


 そうよ、とりあえずこれ聞かないと始まらないでしょ。


「僕もわからないんだ……。

 お風呂に入っていたんだけど、気づいたらここにいて」


 ヘンリーの頭の上を?マークが飛び交っている。

 どうやら、彼にもわからないらしい。


 もしかして、よく漫画とかでやってるタイムスリップ的なこと?

 だとしたら、違う国からやってきたのも理解できる。時代も超えてる可能性もあるよね。


「あなたはどこからやってきたの?」


 私の質問に、ヘンリーはたたずまいを正して答える。


「僕は、イギリスの王子。

 ここはたぶん異国なのかな? 君を見ているとそんな気がするよ」


 私は開いた口が塞がらなかった。

 こんなことって、本当にあるの?


「あなたの時代は? 現代のイギリス、じゃない?」

「うん、違う気がする……。僕の母はヴィク〇リア女王なんだけど、今のこの世界もそう?」


 ヴィク〇リア女王って、めちゃくちゃ前の人じゃなかったっけ?

 なんか世界史に出てきたような気がする。あー、もっと勉強しとくんだった。


「ヴィク〇リア女王は19世紀中盤から後半に活躍された方です」


 龍が静かに口を挟んできた。


 さっすが、龍。

 私は心の中で、親指を立てる。それを感じ取った龍があきれたような顔をした。


「じゃあ、ヘンリーは100年以上も前のイギリスから、タイムスリップしてきたってこと?」

「へー、今はそんなに未来なんだ」


 驚きつつ、どこか可笑しそうに笑うヘンリー。

 私ほど驚くこともなく、あっさりとこの現実を受け入れたようだった。


 やっぱりこの人、変かも。

 っていうか、何でこんなに日本語うまいの? さっきからめちゃくちゃ普通に受け答えできてるけど!

 私は先ほどから感じていた違和感を率直にぶつけてみる。


「ねえ、何でそんなに日本語上手なの? さっきから普通に話してるけど……」

「え? あーそうだね、何でだろう?」


 ヘンリーは首を捻った。

 どうやら彼自身にもわからないらしい。


 これはあれか、やっぱり漫画的な感じ? こっちの世界にやってきたら話せるようになってた、みたいな……。

 もう何が起こっても驚かないけどさ。風呂の中から出てきたって時点で、もうとんでも話だし。


「まあ、びっくりはしたけど。

 それより、流華に出会えたことの喜びが大きいかな、僕は」


 そう言ってヘンリーはキラキラした瞳で私を見つめる。


 その瞳はなんだか艶っぽくて、今までそんな瞳を向けられたことのない私は戸惑うばかりだ。

 私の目がクルクルと回っている。


「なんだか、流華を見ていると不思議な気持ちになるんだ。

 ほっとして、安心する。あたたかな気持ちに包まれ、それでいて胸が高鳴る。

 こんな気持ち、初めてだよ」


 ヘンリーは私の手を取り、なんとその甲に口づけしてきた!


 一瞬で、龍の殺気が部屋を満たしていくのを感じる。

 私は恐る恐る龍の方へ視線を向けた。


 龍の身体は小刻みに震え、拳をきつく握りしめている。

 どうにか耐えているようだが、いつまでもつかわからない。


「お嬢……その男、どうするつもり……なんですかっ?」


 こめかみに血管を浮かせた龍が、精一杯の作り笑いで私に問いかけてくる。


「うーん……どうするっていっても。行く当てなんて、ないんでしょ?」


 私がヘンリーに尋ねると、彼は迷子の子犬のような瞳を向けてきた。


「うん。どうやって来たのかわからないから、戻ることもできないし。

 この世界で行くところなんてない。君だけが頼りなんだ」


 ウルウルした瞳、しっぽがあれば振っているんじゃないかと思わせる態度で、媚を売ってくるヘンリー。


 私って、捨て猫だの捨て犬だとかに弱かったりするんだよね。

 頼りにされると、放っておけない性格というか。


「お嬢!」


 それを察してか、龍が釘を刺すように吠えた。


 私はヘンリーを見つめ、ぽつりとつぶやく。


「しばらく……この家にいる?」

「うん! 流華、ありがとう!」


 ヘンリーがおもいきり、私に抱きついてきた。


 お風呂上がりの彼の体温……祖父に抱きしめられて以来の人肌の感触。


 心臓が激しく脈を打ちはじめる。


 こんなに、人肌って気持ちいいものなの?

 ヘンリーの腕の中が居心地よくて、私は不覚にもずっとこの中にいたい、なんて思ってしまった。


 急に顔が熱くなっていく。


「お嬢……もう……俺は、無理です」

「え? ちょ、龍っ」


 振り向いて龍の顔を確認したかったが、ヘンリーの腕に邪魔され確認できない。


 次の瞬間、龍に吹っ飛ばされたヘンリーが目の前の壁にめり込んだ。


「ヘンリーっ! 龍! ちょっとは手加減しなさい!」


 私は怒りながら龍へ視線を向ける。

 龍は私から顔を背け、真顔で突っ立っていた。


 その態度は、何も悪い事などしていない、と言っているようだった。


 また私は、壁にめり込んでいるヘンリーを急いで救出する。


「……大丈夫っ? ごめんね、何度も」


 龍にやられる度に、ヘンリーの浴衣は少しずつはだけていた。

 はだけた浴衣から覗く白く綺麗な肌。


 それを目撃してしまった私は、顔を赤らめた。

 そんな私の様子に、ヘンリーはくすっと笑う。


「本当に、君は可愛いね。

 まだ何も知らないの? 僕が教えてあげたいな」


 私の顔はさらに赤くなっていたに違いない。


 それより、龍の殺気がとんでもない事態になっていることに気づいた私は、咄嗟にヘンリーを背に庇った。


「龍、駄目よ、まって!」

「そうだよ、龍さん。いくら流華が可愛いからって独り占めはよくない」

「なっ……」


 龍の顔が怒りに染まった。

 今にもヘンリーを殺しそうな顔をしている。


 まずい! 龍をしずめなければ。


 そのとき、背中に庇ったヘンリーが後ろから私を抱きしめてきた。


「ちょ、ヘンリーっ」


 私がヘンリーの方へ振り向くと、目の前に彼の顔面が迫っていた。


 あっという間に、私の唇は奪われてしまった。


 時が止まる。


 なんだか、不思議な感覚に包まれる。


 ただ、嬉しいとか、気持ちいいとかそういう単純な感情ではない。

 特別な何か。遠い昔に忘れた大切な感情?


 ずっと忘れていた、大切な何か……。


 このままずっと時が止まればいいとさえ思ってしまう。


 唇が離れ、私たちはお互い見つめ合う。

 私がヘンリーを見つめると、彼も視線を外さず私のことをずっと見つめ続ける。


 はっと意識が戻り、龍の方へ視線を向ける。


 龍は腰を抜かしたように座り込み、虚空こくうを見つめていた。

 どこかへ意識が飛んでいるようだ。


 なんだかよくわからないが、助かった。

 私のキスシーンなんて、龍には刺激が強すぎる。


 それにしても……。


「ヘンリー、こういうこと簡単にしちゃ駄目だよ。

 あなたは王子だからわからないかもしれないけど、キスは愛し合ってる人達がするものなの」


 私は照れくさくて、ヘンリーから視線を逸らした。


 王子だから、一般常識が通じないのだろうか。普通、初対面でいきなりキスする?


 別にそんなに嫌じゃなかったから、怒ることを忘れそうになる。

 って何で、嫌じゃないんだろう……。


 私はわけがわからなくて、自分の唇にそっと手をあてた。


「僕はもしかして……この世界に、君を探しにきたのかもしれない」


 ヘンリーは何の悪びれも無く、最上級の可愛らしい笑みを私に向けるのだった。


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