体育館。
朝のホームルーム中だから、やはり誰もいない。
いるのは、僕と青手木だけだ。
体育の時とは真逆に、驚くほど静まり返っている。
だが、これは一度、僕は経験している。
状況はあの時と同じ。
青手木に結婚届けを見せられ、無理やり婚約者にされた、あの時と。
あの衝撃的なことは、昨日のように思い出せる。
うーん。最悪だ。
……思い出したくねえな。
なんて言ってる場合じゃない。
そろそろ本題に入るか。
早くしないと、一時間目に体育があるクラスの奴が来るかもしれないし。
こんなところを見られたら、なんて言われるかわかったもんじゃない。
だが――。
「口座番号を教えて」
口火を切ったのは青手木の方だった。
「……は?」
「現金の方がいい?」
いきなり、こいつは何を言ってるんだ?
……いや、それよりも気になるのは違和感だ。
こいつが……青手木が僕にタメ口をきいている。
「何の話だ?」
「一億円」
うーん。相変わらず、マイペースなやつだ。
このちぐはぐ感は、いつも通りだな。
「ちゃんと説明しろ。なんの一億円だ?」
「慰謝料」
ぎっくーーーーー!
ヤベェ。
僕に結婚の意志がないことを察知されたか。
くそっ。
二日前、月見里さんの前で払うって決心したばかりだが、いざ、実際に請求されると焦る。
一億円。
やっぱり、実感がわかないほどの金額だ。
「い、いや、あのな、青手木……」
「現金で欲しいというなら、少し、時間がかかる。小切手でもいいなら、この場で発行できる」
「……ん?」
さらなる違和感。
「おい、その言い方だと、お前が僕に払うように聞こえるぞ」
「……」
お、おい。
なんだよ、そのアホな子を見るような目は。
……いや、まあ、無表情なんだけど。
僕の後ろめたさがそう見せるのかも。
「破棄した方が、慰謝料を払うのは当然」
「なに? 破棄した方だと?」
「……私が婚約を破棄したから、私が慰謝料を払う」
「……」
なんだ?
何を言ってる?
青手木の方から?
こいつの結婚願望は、そりゃ、半端ない。
だから、絶対に青手木が諦めるなんてことは有り得ないはずだ。
罠か何かか?
「待て! なにがどうなってるのか、わからん。説明しろ」
「一億円、どうするの? 現金? 振込? 小切手?」
「あー、もう! そんなのはいらねえよ! 説明しろって!」
「……そう」
青手木が踵を返し、スタスタと歩き出す。
「お、おい。どこ行くんだよ?」
「……」
無視。
そりゃ、青手木らしいっちゃ、らしいけどよ。
僕は青手木の前に回り込んで、肩を掴む。
「説明しろって!」
「そんな義務、ない」
「……えっと、ほら、僕はお前の婚約者だろ。聞く権利はあると思うぞ」
「破棄したんだから、もう違う」
「あ、でも、結婚届けがあるだろ」
「……これ?」
青手木が制服の内ポケットから一枚の紙を出す。
僕と青手木の名前が書かれた、結婚届け。
「そ、そう。それだ、それ」
「もう必要ない」
ビリビリビリ。
それは一瞬のことだった。
いきなり、青手木はその場で、結婚届けを破りだす。
「え?」
「これで、完全に婚約は破棄になった」
青手木はそう言うと、僕の手を振り払い、歩き出して行った。
それは僕がずっとしたかったことだ。
紙切れ一枚で僕の生活がどれほど脅かされたことか。
だが、僕はずっと望んできた状況を受け入れられずにいた。
僕は青手木を追うことができず、ただ、細切れになった結婚届けの残骸を呆然と見ることしかできなかった。