「お帰りなさいませ」
玄関で、青手木が三つ指ついて頭を下げる。
この光景にも慣れてきた。というより、なんか安心する。
家に戻った時、誰かがいてくれるというのは、こんなにも心地よいものなんだと気づく。
両親が死んで、叔父さんの家で暮らすようになってからは、僕が帰って来ても「お帰りなさい」と言ってくれることはほとんどなかった。
……ああ、そっか。
僕はあの家にいても、叔父さんと叔母さんとは同じ空間にいたのに、ほとんど話しをしなかった。
青手木と、青手木のお母さんのような関係。
……辛かっただろうな。
「ただいま」
靴を脱いで、部屋へと歩く。
僕の後ろを青手木がついてくる。
居間へのドアを開くと、案の定、惨劇が広がっていた。
おかしい。
ここ何週間の間で、僕の家の物はほとんど無くなったはずだ。
茶碗や皿はもちろん、本や服なんかも、青手木にダメにされて捨てている。
だから、こんなに散らかる程、物が無いはずなんだ。
ま、いいか。
僕はため息をついて、取り敢えず目の前のガラスの欠片を拾う。
相変わらず怖いものが平然と落ちている。
青手木に、スリッパを履くように言っておいたのは正解だったな。
自分の家の床に血痕が転々と落ちている光景は、結構、くるものがある。
犯罪の証拠を消している感覚に陥るのだ。
それにしても、僕の家にガラス製品なんてあったけな?
僕はあんまりガラス製品が好きじゃない。
すぐ割れるイメージがあるし、割れた時に危険な感じがするからだ。だから、コップとか皿なんかは、陶器の物ばかり買ってくる。
「なあ、青手木。このガラスってどこから持ってきたんだ?」
「買って来ました。この前、コップを割ってしまったので」
「別に気にすることねえのに」
「本当は一緒に買いに行きたかったのですが、イノリさんは、忙しそうでしたので……。お揃いのを買ってきたのですが、使う前に、また割ってしまいました」
僅かに肩を落とす青手木。
どうやら落ち込んでいるらしい。
相変わらずの無表情だが。
「すぐに片付けます」
青手木がガラスの破片を拾い始める。
「……っ」
ポロっと、破片を落とす青手木。
ポタポタと血が床に落ちる。
手を切ったようだ。
うーん。
今度は軍手も履くように言わないとな。
救急箱から絆創膏を取り出し(すぐに使えるように、居間に置いてある)青手木の右の人差し指に巻く。
「私……迷惑かけてばかりです」
ポツリとつぶやく青手木。
ほう。どうやら、迷惑をかけているという感覚を、ようやく持ってくれたようだ。
僕に迷惑をかけたくないなら簡単な方法がある。
それは、僕の家に来ないことだ。
「青手木。腹、減らないか?」
「すぐ、用意します」
青手木が台所へと歩き出す。
「あ、ちょい待て」
青手木の手を握って、台所に行くのを止める。
華奢で小さい、青手木の手。
「なんでしょう?」
青手木が僕の顔をジッと見てくる。
「飯はあるんだ。ほら」
僕はお土産にもらった紙袋を掲げる。
メイド長さんは、気を利かせてくれたのか、お弁当を二つ入れてくれていた。
「一緒に食おうぜ」
青手木の手を握ったまま、テーブルへと向かう。
向かい合うように座り、青手木にお弁当と箸を渡す。
「いただきます」
僕が手を合わせて、そう言うと、青手木も同じようにする。
「いただきます」
食べている時は、特に会話はしなかった。
ただ、ふと顔を上げると目の前には青手木がいる。
なんだか、それが妙に嬉しかった。
一人で食べるよりも、誰かと一緒に食べる方が美味しく感じると言うけど、なるほど確かに、と、不覚にも思ってしまう。
僕は、母さんや父さんがまだ生きていた時、三人で一緒にご飯を食べていた時のことを思い出していた。
弁当を食べ終わり、そろそろ青手木を送っていこうと考えていた時だった。
青手木が僕の部屋へと入って行き、すぐに出てくる。
手には、バイオリンを持っていた。
「イノリさん、バイオリンを弾くんですか?」
「ん? ああ、まあな」
そういえば、最近は全然弾いてないことに気づく。
その原因は目の前にいる青手木、お前のせいだけどな。
それどころじゃなかったんだよ。色々、作戦とか練るのに忙しかったから。
「……聞かせていただくことはできませんか?」
「……え?」
珍しいな。
こいつが、夫婦の役割のこと以外で、お願いしてくるなんて。
「嫌なら、無理しなくていいです」
「いや、別にいいぜ。でも、期待すんなよ。そこまで上手いってわけじゃないからな」
青手木と一緒に、家の近くにある公園へと移動する。
実際に音を奏でるときには、いつもここに来るのだ。
青手木をブランコに座らせる。
この公園って、ベンチとか無いんだよなぁ。
他に座れそうなところって言えば、シーソーか、滑り台くらいだし。まあ、ブランコが一番無難だろう。
僕は青手木の前に立ち、バイオリンを構える。
あご当ての部分が壊れているので、胸に当てての構えになるのが若干弾きづらい。
弓を弦に当てる。
……そういえば、人前で演奏するのって久しぶりだな。
おっと、ちょい緊張してきたぞ。
僕は目をつぶり、深呼吸する。
これが僕なりの緊張のほぐし方なのだ。
目を開き、弓をゆっくりと引く。
旋律が生まれる。
そこからは夢中で弾いた。
何も考えずに、ただただ音を奏でることに集中する。
まるで僕の意識が曲に溶け込んで、広がっていく感覚。
バイオリンを弾いているときだけが、僕の安らぎだった。
寂しさを忘れることができた。曲が一緒にいてくれる。
僕は一人じゃない。そう思えた。
そして……月見里さん。
僕のバイオリンを好きだと言ってくれた。
こんな僕でも、誰かの役に立てるんじゃないかって思えて、嬉しかった。
一人でいることが寂しいって嘆くんじゃなくて、僕はここにいるって主張するんじゃなくて……誰かの為に曲を奏でるもの。
音楽って、そういうものだって教えてくれた月見里さん。
だから、ずっと聞いていて欲しかった。
聞かせたかった。
一緒にいたかった。
僕のバイオリンを聞いているとき、月見里さんは気持ちよさそうにしていた。
そして、涙を流してた。
聴き終わると、決まって、笑顔でこう言ってくれた。
「ありがとう。元気出たよ!」
元気をもらったのは僕の方だった。
その言葉で、どれだけ僕が救われていたか。
月見里さんは、あの時のことを忘れているけど、それで良いと思う。
僕が覚えてるから。君に元気をもらったことを覚えてるから。
君が、あの場所に来なくなってから、僕は気づいた。
君を好きになっていたことを。
一曲弾き終わり、僕は大きく息を吐く。
なんか色々思い出しちまったなぁ。
目を開け、青手木を見る。
青手木の目から一筋の涙が流れた。
「……青手木?」
「とっても優しい音色ですね」
「え?」
「ありがとうございます」
ブランコに座ったまま、青手木は深々と頭を下げる。
「な、なにがだよ」
「元気をいただきました」
無表情で、そう言う青手木。
……お前。
辛かったんだな。
何が、寂しいって思ったことないだよ。
「イノリさん? どうしたんですか?」
青手木が立ち上がり、僕の顔を覗き込んでくる。
左手で頬に触れてくる。
暖かい。
僕より頭一つ分、背が低い青手木。
体だって、同年代の女の子より細い。
こんな小さな体で、ずっと一人で頑張ってきたんだな。
あんな広い家で、たった一人。
「辛いことがあるなら、言ってください。私がイノリさんを守りますから」
「バカ。逆だろ。奥さんを守るのは、旦那の役目だ」
「……そうですね。では、私はイノリさんを支えます。夫を支えるのは、妻の役目ですから」
「お前は、良いお嫁さんになれそうだな」
「嬉しいです」
青手木の言葉に思わず笑ってしまう。
嬉しいなら、少しは表情を変えろよ。
わかり辛いだろ。
ふと、青手木と結婚したときのことをシュミレーションしてみる。
家の中はいつも惨劇状態になっていて、飯を食うたびに死にそうな目にあう。
ほとんど会話が無くて、何を考えているか分からない。
……ダメじゃねーか。
前言撤回だ。
お前は良いお嫁さんにはなれねーよ。
残念だけど。
「あの……」
「ん? どうした?」
「もう一曲、聞かせていただけませんか?」
僕の顔を覗き込んでくる。
青手木の頭を撫でながら言う。
「よし、じゃあ、座れ」
コクンと頷き、ブランコに座る青手木。
僕はバイオリンを構えて、曲を奏で始めた。