結婚。
それは、誰でも一回は夢見るものだと思う。
もちろん、僕もそうだ。
結婚してみたい。そう思うことはある。
ある。確かに、ある。
けど、それはまだまだ先の話で、今じゃない。
高校生の僕にとって結婚なんて将来の、夢のような話だ。
まったく、現実のものじゃなかった。
……そう。
ほんの……数時間前までは。
*
夢を見ていた。
三年前の……ちょうど今頃の時期だった。
あの時のことは夢で見なくても、今でも鮮明に思い出せる。
十一月の中旬。聖将学園駅前。
日が暮れ、近くの店の明かりが灯り、吐く息が若干白くなりつつある中で、僕はバイオリンを弾いていた。
周辺では、そろそろクリスマスを意識してイルミネーションの準備などが始められていて、綺麗だったのが印象的だった。
その時の僕は自分に酔っていて、自分は特別な人間なんだと思い込んでいた。
中学三年の時の僕は、まあ、なんというか……いい意味で言うとロマンチストだった。
ストレートに言うとただの馬鹿なんだけど。
たまたま行った中古楽器店の親父さんに進められて、弾いてみたら割と上手かった。
たった、それだけの理由でバイオリンにのめり込んだ。
その親父さんはやたら人を褒めるのが上手かったから、僕はあっさりと自分は天才だと思い込んでしまった。
貯めていた小遣いを全てつぎ込み、バイオリンを購入。
家で必死に練習した。毎日、四、五時間……独学で、だけど。
ちなみに、練習曲はエルガーの『威風堂々』にした。楽器屋の親父さんがくれた楽譜の中で、一番気に入ったからだ。
で、三ヶ月後、まあ、それなりにスムーズに弾けるようになる。
早速、駅前で路上ライブを試みた。
目的は……メジャーデビュー。
うーん。
ホント、アホだったよな。
あの頃の僕。
路上ライブをしていれば、有名な人の耳に入り、そこから一躍デビューできる、なんてことを本気で考えていた。
が、世の中はそんなに甘いもんじゃない。
有名な人どころか一般の人ですら、僕の演奏に耳を傾けることはなかった。まあ、当然だと思う。
ただ、そのときの僕は、一気に奈落の底に落とされた気分だった。
孤独。
僕はここにいるのに、まわりの人間はまるで僕がそこに存在していないかのように通り過ぎていく。
虚しかった。
自分なんか誰も必要としていないのだと、言われたような、そんな気分。
心が折れ、もう帰ろうと思ったときだった。
「あれ? 止めちゃうの?」
いつの間にか、僕の目の前にセーラー服姿の女の子が立っていた。
僕と同じくらいの歳の、外にはねたショートカットの、とても可愛らしい女の子だった。
その子は寂しそうな顔をして僕を見る。
「もう少し聞きたいな。君の演奏」
嬉しかった。
そして、僕は思った。
別に大勢の人に聞いてもらわなくても、たった一人に聞いてもらえるだけで、それは幸せなことなんだって。
僕の一目惚れだった。
たった一言で、その子は僕の心を鷲掴みにしてしまったのだ。
僕はなんと答えていいか分からず、ただ、演奏を続けた。
彼女は目を閉じて、僕の演奏を聞いてくれた。
本当に幸せな時間だった。
ただ、今だに一つだけ後悔していることがある。
それは、彼女に自分の思いを伝えられなかったことだ。
まあ、いきなり会った人に告白なんてされたら、ドン引きされるだろうけど。
でも、あの時がベストなタイミングだったと思う。
一度、言いそびれたことは、なかなか言い出せないものだ。
それは三年経った今でも言えずにいる。
たった一言。
「君が好きだ!」
この言葉を、あの時に言っていれば、変わっていたんじゃないかって思うんだ。
*
*
その夢を見ていたのは放課後だった。
学校が終わってからバイトまでの間、自分の机で突っ伏して寝るのが習慣になっていた僕。
当然、その日もそうしていた。
放課後の学校というのは、割と静かで寝心地がいい。
だから、つい、夢を見るほど熟睡してしまう。
その寝ている僕の肩を、誰かが大きく揺すった。
「
小さいが妙に響く声と、揺らされる振動で、僕はまどろみながらも目を開け、顔を上げた。
「これに名前を書いて欲しいの」
僕の前に立っていたのは、クラスメートの
腰まで伸びた髪に華奢な体つき。
背は僕よりも頭一つ分低い。
女子も見とれるほどの美人なのに、いつも無表情という、なんとももったいない奴だ。
さらに金持ちの令嬢らしく、リムジンで通学していると噂で聞いたことがある。
ただ、その光景は滅多に見られるものではない。
なぜなら青手木は、ほとんど学校に来ないからだ。
学校に来るのはテストの時くらいだろうか。
今日は中間テストの最終日。
青手木が学校にいること自体に、何も疑問はない。
だが、なぜ、僕の前に立ち、僕に話しかけているのか?
まあ、そんなことはどうでもいい。僕にとって重要なのは、貴重な睡眠時間を邪魔されたことだけだ。
「……なんだよ」
僕は思いっきり、不機嫌で低い声で言ってやった。
寝起きでほとんど目が空いてないから、きっと目つきも悪くなってるだろう。
大抵の女子は(男子もか?)逃げて行ってしまう。
自慢じゃないが、僕は割と目つきが悪い。
……うん。まったく自慢にならないな。
「これに名前を書いて」
が、青手木は怯む様子もなく、無表情のまま一枚の紙を机の上に置いた。
すごくでかい紙。テスト用紙を横に二枚つなげたくらいの大きさだ。
「……なんだ、これ?」
「いいから」
まったく僕の質問に答える気がないようだ。
僕は渋々、紙に目を落とす。
……ものすごく眠い。
ほとんど目が開かねえ。
「どこに名前を書けばいいって?」
「ここ」
青手木は、ある枠内を指差し、ボールペンを渡してくる。
とにかく、僕は早く寝たかった。
何の紙だかよくわからんが、名前を書けば満足してくれるだろう。
そして僕も睡眠に戻れる。お互い、ハッピーだ。
僕はボールペンを受け取り、サラサラと名前を書いた。
千金良イノリ、と。
「これで満足か?」
「ハンコも」
「持ってねえよ」
「母印でもいい」
青手木シオはポケットから、朱肉を出した。
「……」
なんで、この女はこんな物を持ち歩いている?
そう考えながらも、僕は母印を押した。
……そう、押してしまったのだ。
「これで満足か?」
僕は乱暴に紙を青手木に差し出す。
「……はい」
青手木は紙を受け取ると、大事そうに抱えた。
「じゃあ、僕は寝るから。もう邪魔すんじゃねーぞ」
僕は再び机に突っ伏す。
「おやすみなさいませ。イノリさん」
……なんで敬語?
僕はその時、そんなどうでもいいことを考えながら、眠りについた。
だけど、僕が本当に考えなければいけなかったのは、青手木の持っていた紙は一体なんだったのか。
そして、なぜ、母印まで押さなければならなかったのか、だ。
学生生活において、ハンコを必要とすることなど、ほとんど皆無だ。
……その有り得ないことを僕は眠たいという理由で、よく確かめもせず、さらっと書いてしまった。
今回の事件から学んだ教訓。
書類は、よく確かめてから名前を書こう。
名前と母印というものは、物凄い効果を発揮するものらしい。
それこそ、人生を決定づけてしまうほどに……。