―――どのくらい経っただろう?
彼は自分がひどくぼんやりとしていたことに気づいた。
相変わらず霧が月明かりを反射して辺りを白く染めている。
だが―――
目の前の霧が、ぼんやりと、淡い色に光っている。桜の色だ、と彼は思った。
その淡い色の光が、近づいてくる。いや、その光の中心が、次第にこの舟に近づいてくるのだ。彼は思わず腰を浮かせた。
と、水面から、ぬっ、と手が突き出された。
光は、その手の上の物から発していた。
決してまぶしい訳ではない。だが確かにそこから光はあふれている。光が、在る。
そしてその手がくい、と一度反り返り、光を空に放った。ユカリはただぼんやりと、その光の描く曲線を目でたどる。霧をその瞬間桜の色に染めて、ゆっくりと、それは舟の上に落ちてきた。
がごん、と音がする。
はっ、と彼は目を見開いた。舟が揺れたのだ。
傾いた方へ視線を投げると、先ほど水面から出ていた手が、舟の縁に掛かっている。彼は慌てて近寄ると、その手を取った。
その手が、自分の手を握り返す。縁から彼は海をのぞき込む。
濡れているのに、その髪はおさまりが無かった。辺りの光を反射して、金色に、ぼんやりと輝いている。
「帰ってきたぞ?」
ナギは、口元に笑みを浮かべた。
*
「……これ……」
ユカリは自分のシャツを一枚脱いでナギに差し出した。上着を掛けようとした彼に、彼女はそれよりもシャツを貸してくれ、と言ったのだ。
ありがとう、と彼女は受け取ると、まずそれで頭を拭いた。そう使われるとは、とユカリも思ったが、それは確かに理にかなってはいる。彼のシャツは木綿の柔らかな素材で、糊などきかせてもいない。水をよく吸い取ることは請け合いだった。
そしてそのまま、彼女は内着のスナップを外しだした。
え、とユカリは思わず目がそこに吸い寄せられるのを感じた。
「何だ?」
それにナギもすぐに気づき、問い返す。
「や…… あの……」
「ああ」
彼女はくすくすと笑いながら、一気に内着の上半身を脱ぎ捨てた。
「見ていられないなら、後ろ向いてろ。でも話したいのなら、こっちを向いて」
「ナギ」
彼は目を細めた。
目の前の彼女の身体は、船上に置かれた石のようなものから放たれる輝きに白く浮かび上がる。何て華奢なのだろう、と彼は改めて思う。
「話したい」
「ではこっちを向いてろ」
そう言い放つと、彼女は腕を伸ばし、濡れた身体の水気を取りはじめる。目をそらしたい。だけど離せない。話をしよう、と彼は思った。
「ナギ」
「何だ?」
返事はする。だが手が止まる気配は無い。
「これは、一体何?」
彼は桜色の光を放つ「これ」を指さす。
「何に見える?」
ナギは問い返す。「これ」は、人の頭くらいの大きさの岩の様に、彼には見えた。
「岩に、見えるだろう?」
「ああ」
彼はうなづいた。
「違うの?」
確かに、光を放つ石など、見たことはないのだけど。ただ、その光の色が、彼に何となく安心感の様なものを与えていた。桜は、彼の祖先の国の名でもある。今は既に歴史の中に埋められたようなその名ではあるが、彼の中には深く刻み込まれている。
「岩と言えば、岩だ。だが違うと言えば、違う」
「……と言うと?」
ナギは光を放つ岩を指さした。
「この岩が生きている、と言って、ユカリは信じるか?」
「……生きている?」
「これが、『落ちて』きて全てが始まったんだ、ユカリ」
「これが!?」
彼は思わず叫んでいた。指さしていた。そんな馬鹿な、と自分の中で罵倒する声が響く。
だがナギの口調には嘘は無い。いつもと同じ様に、事実を淡々と述べる時のものだった。
「岩の様なものだ、とは思っていた。皇太后さまから聞いた話でも、その様なものだ、とは聞いていた」
「大きさは? こんなに小さいものだって……」
「正直言えば、ここまで小さいとは、私も思っていなかったんだ」
彼女は苦笑する。
「それじゃこれ以上もっと大きなものだったら、どうするつもりだったの?」
「さぁて。その時にはあきらめて放っておこうかと思ったよ」
と言うことは、彼女はこれが小さいものだ、と確信していたのだろう、と彼は思う。
「もとは大きなものだったのだろう。だが、今となっては、この本体は、これだけでしかない。移動に移動を重ねて、身がすり減ってしまったのだろうな」
「身がすり減って?」
「ユカリ、これは生物なんだ」
え? と彼は自分の声がひっくり返るのを感じた。
「生物なんだよ、これは」
「だけど、岩……」
「岩なんだ。だけど、生物なんだ」
「そんな…… 生物いるのか?」
「居るのか、と言われても困る。居るんだよ、ここに」
彼女はを岩を指さす。それは相変わらず光を放ち続けている。
「確かにここではまだ見つかったことの無いものなのかもしれない。だけど、確かにある。ここに。……ユカリ、あなたは私や皇太后さまが『そういう生き物』であること納得したのだろう?」
「それは」
彼は答えに詰まる。それは、確かに納得した。納得はしたのだが。
「滅多にいない生物であることには変わらない。ついでに言うなら、これは意志を持つんだが、あなたと言葉が通じる存在ではない」
「ナギとは通じるのか?」
「通じるというか。何を考えているかは、伝わることは伝わる。だが全ての意味が判る訳じゃない」
「伝わるけど、意味が分からない?」
「そうだ」
彼女はそう言いながら、脱ぎ捨ててあった制服の上着を身につける。やや胸の開きは大きいが、目立つ程ではない。
しかし、次に下を取りはじめた時に参った。黒い、ぴったりとした足全体を包んでいた内着から、白い足が姿を現す。細くて、すんなりとして、髪と同じ色の産毛の存在が判る。
「どういうこと?」
「たとえばユカリは、猫の気持ちが分かるか?」
「え?」
「いや、飼い猫の気持ちが分かるという奴は居るな。じゃあ、そこらを飛ぶ蛾の気持ちは分かるか?」
「蛾?」
「蟻とか、そんなものでもいい。とにかく、人では無い、別の生物。言葉があるのか無いのかも判らない、そんな、だけど生きているものたち」
「……それは…… 俺には判らない」
「だろう? だから、そういうものなんだ、これは」
彼は眉を軽く寄せた。