風もなく、穏やかな水面は、漕ぎ出すにはうってつけの状態だった。
「案外上手いな、ユカリ」
え、と彼は問い返す。その手には二本の櫂を持ち、彼は沖へ沖へと漕ぎ出していた。
「故郷で、近くに湖があったんだ。時々乗せてくれっていう幼なじみが居たから」
「ふうん。それはいい光景だな」
「いい光景?」
「穏やかで、平和な光景じゃないか。私には無かった」
「ナギ」
「まあもっとも、格別に欲しいとも思わなかったが」
「本当に?」
彼は問い返す。
「ねえナギ、あなたは、本当にそういうものが欲しいと思ったことはないの?」
彼女は目を細める。だがその表情までは、彼の目には逆光で映らない。だから彼は続けた。言わなくてはならないことがある、と彼は感じていた。
「ナギは、この先どうするの?」
「この間も言ったろう? しばらくはシラさんの元に居るさ」
「だけどその後は? シラ嬢のそばには、ずっとは居られない、ってあなたは言ったじゃないか。その後、やっぱり彼女に会う前の様に、ずっと、一人で……」
彼は言葉を切った。自分が何を聞きたいのか、彼はようやく判ったのだ。
「あなたは一人で…… 寂しくないの?」
言ってしまった、と彼は思った。
ナギはしばらく黙っていた。
いや、大した時間は経っていないのかもしれない。だが彼にはひどくそれが長い時間に感じられた。
音と言えば、波の微かな動きだけ、あとは不安定に揺れる足下と、慣れない風のにおいと、月明かりだけ。それがひどく彼に、その僅かな時間を何時かにも感じさせたのだ。
「ユカリ」
彼女は乾いた声でそう切り出した。
「もしも、私がそれで寂しいとしよう。ではそれで、寂しいと思ったところで、どうにかなる、と思うのか?」
「え」
「寂しいと思って、誰かに対して泣きわめいて嘆き悲しめば、それで私の感情が治まると思うのか?」
それは。思う、とは彼には決して言えなかった。
「なあユカリ。確かにそうだ。私は決して寂しくない訳じゃあない。正直言えば、そんな時期の方が多かった。そしておそらく、シラさんと離れた後、次の何かが見つかるまでは、きっとまた寂しいのだろう。だがだからと言って、嘆いて何になる?」
淡々と、しかしその中には力がこもっているのを彼は感じた。
「私がこういうものであるのは、どうしようも無い事実で現実だ。私が望んでそうなった訳ではなくともな。天に泣き叫んで許しを請えば戻れるというなら、幾らでもしてやる。だけど、そういうものではないんだ」
たとえば。昔話で、魔法をかけられて化け物にされてしまった姫君は、最後には魔法が解けて英雄と一緒になって幸せになるだろう。だけどそれは魔法ではない。魔法なぞ、この世界には無いのだ。
「身体そのものが変わってしまっているんだ。それを治す方法が、医学的に、科学的にあるのかもしれない。だけど、今の医学や科学ではそれは判らないことなんだ。だとしたら、私に一体何をしろという? どうしようもないことに対して、私は怒ればいいのか? 悲しめばいいのか? 私は無力なんだぞ? どうしようも、なく」
「俺はあなたが好きだよ、ナギ」
ユカリは自分の口からこぼれ出た言葉に、自分自身驚いた。だが、それは間違いではない。
「皇太后さまが好きなのではなかったか?」
「それとは別に。かと言ってあなたと寝たいとかそういうのではないのだけど」
「寝てもいいぞ?」
「そういう気持ちにはなれない。だけどあなたのことは、すごく好きなんだ。だから、俺はあなたがこの先寂しいと、悲しいと思う」
ナギは手を伸ばすと、彼の頭に手を触れた。小舟の上では、大きく動いてはいけない。
「皇太后さまが、あなたのことをつい気にしてしまう訳だ」
やがて、小舟はぴん、と何が引っ張られる様な感覚とともに止まった。
「これでいっぱいか」
船に着けられた縄はぴん、と張られている。それでも船は前へ前へと行こうとするのを必死でくい止めるかの様だった。
「もう少し…… それでも伸びないものかな」
ナギはぼんやりとし始める水面を眺めてつぶやく。
「気配はあるの?」
「ある」
ナギは短く答える。そしてやや悔しそうに付け加える。
「確かに、あるんだ。だがまだもう少しなんだ」
「もう少し」
「どうかな」
彼女は手を水面にと近づける。ぐら、と船体が揺れた。
「おい!」