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第81話 銀の人形の様な少女

 二年前のことだった。なのにまだはっきりと思い出せる。

 それからは、皇宮内で庭番の一人として勤めながら、時々その様に呼び出されるのを待つ身となった。

 呼び出され、その姿を前にし、仕事を受け、それをやり遂げるのが、彼の何よりの喜びだった。

 実際彼は皇太后の覚えめでたく、仲間内でも有望株と噂されるようになっていた。幼なじみで、少し遅れて皇宮に入り、表向き後宮の女官として仕えているアイノも、そう口にすることがあった。

 もっとも、当のユカリにしてみれば、そんなことはどうでもよかった。

 ただ、いつか長になれたらな、と思うことはあった。

 そうすれば。

 彼はそのたび最初の日にモエギに言われたことを思い出す。

 そうすれば自分はあの方を愛称でお呼びすることができるのだろうか。

 既に彼の背は長と同じくらいにまで伸びていた。


   *


 翌朝、彼は指定された時刻に、その第一中等の少女を迎えに出かけた。

 行き先はその少女が知っているから、自分はそれをひたすら警護し、彼女のすることを手助けするだけ。

 それはひどく単純な命令であり、そしてひどく難しい命令でもあった。

 曖昧すぎる程、曖昧なこの命令には、どんな場所であれ、自分の一番良い判断を要求される。一体その少女が何をするために、自分はついていくのか、それすらも判っていない。無論それは聞くべきことではない、と思ったから聞かなかったが、なかなかそうしてみると、多少の不安が彼の中には生まれていた。

 時計を見て、彼はその少女の滞在しているという屋敷の前に、小型の乗合自動車を呼び止め、それから呼び鈴を引っ張った。からからから、と良い音が響き、すぐに一人の男が、扉を開けた。三十の半ば、と言ったところであろうか。良い服を着た男は、お待ちしておりました、とユカリに向かって礼をする。


「おいでになりましたよ、ナギさん」


 そして声を張り上げて、中の誰かを呼ぶ。ナギ。そうナギマエナ、という名だった。ユカリは資料の中身を思い出す。

 イラ・ナギマエナ・ミナミ、という名だった。

 この国の人間の正式名称は、三つの部分に分かれる。真ん中が名前であり、その上につくのが母姓であり、下につくのが父姓であった。生まれてくる子供はその両方を持つのが常とされ、結婚後も、男子は父姓を、女子は母姓を変えることはない。

 それにしても。ユカリは思う。ナギマエナ、というのは何かおさまりの悪い名前だ、と彼は感じていた。かと言って、今この男が呼んだ様に、ナギ、という名だけだったら、それはそれで何やら軽々しすぎる様な気もする。

 短い名前でも優雅さを感じさせるようなものもあるのだが、どう聞いても、この名はこの屋敷に住む少女には似つかわしくはない、と彼は思った。


「早く。お待ちですよ」

「わかってる」


 編み上げ靴特有の足音が邸内の廊下に響く。そしてその足音に混じって、やや低めの少女の声が、彼の耳に飛び込んできた。


「いい加減お切りになったらどうですか? あなたには当世風の方がお似合いでしょう」

「これが好きなんだ」


 そして声と共に、扉が大きく開かれた。

 あ。彼は思わず目を瞬かせた。

 銀の、人形だ。


「あなたが、あの方の言われた私の同行者か?」


 彼ははっとして慌ててはい、とうなづく。


「イラ・ナギマエナ・ミナミだ。しばらく頼む」


 言われてあらためて彼は目の前の少女を眺めた。

 背が高い。無論自分よりは低いが、この制服を着ている様な少女にしては高い方ではないだろうか。銀に近い金の、細い髪。当世風に耳の下あたりで切られ、ウエーブはついていないが、全体的にふわふわとしている。

 整った顔立ち。そして金色の目。大きくも小さくもないが、すんなりと涼しげな印象を与える。

 肌の色も、北西の人間の血でも混じっているのだろうか、実に白い。

 黒と白だけの色を持つ第一中等の制服に、その姿はひどく映えた。闇に浮かび上がる銀の人形。そんな印象さえ、瞬間的にユカリの中には浮かんだくらいである。

 だがそんな風に見惚れてしまったせいで、彼は差し出された彼女の手に気付くのが一瞬遅れた。


「車が待っているのだろう?」


 ふふ、とナギマエナは笑った。差し出された右手を握り返しながら、彼はええ、とうなづいた。


「行き先はあなたがご存じとお聞きしました。とりあえずご用意しましたが」

「中央駅へ。それではコレファレスさん、後は頼む。時々居場所を伝えるから、その時々に様子を伝えて欲しい」

「かしこまりました。お待ちしております」


 そして彼女はすっとユカリの前を横切って、止められていた小型の乗合自動車の中へと入って行った。

 あ。

 そしてその時、彼はその髪の毛が当世風などではないことに気付いた。

 確かに耳よりやや下でその髪は切られている。しかし、それは上だけのこと。彼女は背中にたてがみを持っている。後ろの一房だけを、長く伸ばし、細く編んでいるのだ。

 その髪が、彼の前を横切っていく時に、一瞬宙に舞った。

 目が、離せなかった。

 だがすぐに彼は我に返り、コレファレスと呼ばれた男に一礼する。そして慣れた調子で車へと乗り込んだ。少女は頬杖をついて、右側の窓から外をのぞいていた。


「……お荷物は」

「これだけだ」


 彼女は手にしていた中型の革のトランクを後部座席の自分とユカリの間に置いていた。それは確かに彼女の様な女子学生がよく持つようなものではあった。しかし少女が片手で持ち運びできる程度である。大した量は入る訳では無い。


「これだけ? ……ですか?」

「ああ。遠距離の移動には、大量の荷物は要らない。あなたこそ、荷物は?」

「私は後ろの荷物入れに」


 ふうん? と彼女はちらりとユカリの方を見る。そしてくす、と微かに笑う。

 何となく彼は、嫌な気分がした。


「出してくれ」


 ナギマエナは運転手に命じた。


「はい。何処まで参りますか? お嬢さん」

「中央駅だ」

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