「お嬢様! お待ち申し上げていました!」
執事のクーツは、黒塗りの最新式の車から降りてくるシラを見た瞬間、屋敷から飛び出してきた。
「市内通信を一つ掛けて下されば、お迎えに上がりましたものを……」
そして彼は、彼女が乗ってきた車が、駅で何台かがいつも待っている小型の乗合自動車ではないことに気付いた。
それは、明らかに特権階級中の特権階級だけが持つのを許されるような車だった。その最新の車体のラインばかりではない。色目からつや出し、車体の前方にあるその車特有の飾り、内装に至るまで、新興貴族などには手に入れることのできないものである。
はあ、と実直な執事はため息をついた。旦那様でもこんな車まずお乗りにはならなかったのに……
「あ、クーツ、お客様が今日一晩家で休まれるから……」
「はい。すぐにお部屋を用意させます!」
「ありがと。……ああそれに、ナギから何か連絡は入っていない?」
「ナギマエナさんですか? ……いえ…… 特には」
「そう……」
だとしたら、確かに黒夫人の動きは素早かったのだ、と彼女は思う。
この分だとナギはまず学校に連絡を入れるだろう。それからこちらへ。
「高速通信は特に今、何処にも異常はないわよね」
「はい。さほど使うものでもございませんし」
それならいいわ、とシラはうなづいた。車体にもたれて黒夫人は煙草をふかしている。
「ところでお嬢様、お客様はどちらの方でしょう?お部屋を用意致します際に……」
「ああ、最上級にして下さいな」
くす、と背後に夫人の笑い声が聞こえたような気がした。
「ラキ・セイカ・ミナセイ夫人よ」
ええっ! とクーツ氏は彼の役割にはあるまじき声を上げた。
もちろんすぐに顔を引き締め、失礼致しましたと一礼はしたのだが、動揺は隠せないものだった。
「参りましょう。御案内致しますわ」
*
「何だってマンダリン、黒夫人がこの家に?」
「そうよ!だってあたし庭に居たんだもの。聞こえたわよ」
大きな台所では、下働きの者達が口差のない噂にいそしんでいた。
「クーツさんももう大変。そりゃもともと気の強い人じゃあないけどさ、おろおろしちゃって」
「時々うちのお嬢様って凄いよなって思うわよ」
「何だいフィネ、今更」
「だってそうじゃない。黒夫人よ黒夫人! あたし一目でいいからお目にかかってみたいと思ったもの」
「そんなに有名かい?」
「有名も何もないわよ」
「あんたは昔っからそういう社交界のひと好きだからねえ、フィネ」
「あんただってそうじゃないのマンダリン!あたし知ってるもの、あんたがお給金の大半をそうゆう人々が載ってる写真誌とかに使い込んでるっての」
「あんた人のこと言えるの?こないだなんて、三番街の劇場に掛かっているお芝居に、上つ方が一斉にお忍びで来るって噂だけでその噂のまわり五日くらい観に行ったじゃない!」
「……まあよせ」
両手を広げて調理長はも小間使いの二人のきゃんきゃんした声を制した。
「そんなに黒夫人を見たけりゃ、二人して仲良くこのお茶を持ってくんだな。お茶とお菓子だ。失礼のないようにな!」
「それに二人とも、お嬢様は帝都へ向かわれるから、そのお手伝いもしておいで!ただしその雀のような声は立てるんじゃないよ!」
女中頭も半分呆れ、半分苦笑しながら、そうつけ加えた。
はーい、とシラと大して歳の違わない二人は喜びいさんで銀のトレイをそれぞれ一つづつ手にした。
「今の若い子ってのはああいうものですかね、マロン夫人」
シラの父親より十は年上の調理長はその太い腕を組んでそう感想を述べた。そして彼と大して変わらないくらいの女中頭も、困ったものですね、と苦笑する。
「まあ仕方ないでしょうね。奥様が生きていらした頃ならともかく、今の子達では……」
「だけどあの頃、あの奥様のお友達だったラキ・セイカ様がこうなるとはねえ」
女中頭はため息をつく。
「派手な方だとは思ったがな」
「でも頭のいい方でもありましたから、派手は派手でもある程度の慎みというものがありましたよ。だけど何ですか…… 今のマンダリンの話によれば、そこいらの暇つぶし、浮かれ騒ぎばかりにうつつをぬかす有閑夫人そのものだって言うじゃあないですか…… 私はちょっとばかり失望いたしましたよ。あれじゃあ若くしてお亡くなりになった奥様も可哀想……」
「俺には女の感覚ってのはどうにも判らんな」
調理長はそう締めくくった。
*
「煙草をここで吸わないで下さいな」
「ああ」
絵が掛かっている廊下にさしかかった時、シラは夫人にそう言った。一番近くの灰皿に、吸いかけの煙草を落とす。
「そうね、彼女は煙草は嫌いだった」
「だったらお止しになればいいのに」
「そういうものでもないのよ」
くすくす、と夫人は笑う。
「ああ、あの時のままね」
「母の、最後の絵です」
「ええ、判るわ。貴女と良く似ているわね」
「そうですか?」
「まあ性格は全然違うわね。彼女の方がよっぽど素直」
お生憎様、とシラは心中つぶやく。