「何処まで行かれますか?」
大陸横断列車の、二等車両で老紳士があたしに訊ねた。
「連合の首都まで…」
「そんな遠くまで、若い娘さんがよく行きますなあ」
「ええ」
「私はもう何回か往復していますが、やはり歳をとった身にはこたえますよ…差し出がましいようですが、どういったご用件で?」
そうですね、と言ってから少し考える。
「別にこれと言って目的はないんですけど」
ふと窓の外へ視線を移す。そろそろ砂漠が見えてくる。これを越えればもう帝国――― 旧帝国ではなく、連合へ入る。
見納めだわ。
「見るべきものは見ました」
「そんな、お嬢さん、そういう言葉は私のような老人が言うものですよ」
そうですわね、とあたしは笑った。
何処かで携帯ラジオが旧帝国のニュースを流している。新しい国名は――― 政治のやり方は―――
もしかしたら六代の皇后の失踪もそのニュースの中にはあるのかもしれない。
帝国は八百年続いた。
そして百五十年だ。あたしがあの国で生きてきた年数。
あれから生まれたあたしの子供は二十八年後に位についた。七代帝だ。だけど彼は男子を残せず亡くなった。
最期の、八代の皇帝は、あたしの息子の、末の娘だった。
もうそのだいぶ前から、帝国の終わりは見えていた。そして、それは息子の死からすぐだった。息子は疲れ果てていた。
見ているのに辛いような出来事もたびたびあった。けど嬉しいこともいろいろあった。
カン・リュイファ・コンデルハンは夫君の協力もあって、学都でない地に最初の私立の女子高等教育機関を作ることに力を尽くした。今でもその学校は健在である。名門と言われているが、決して裕福な少女だけのものではない。
六代の陛下のうちに、テストケースだった女子の学校も、数が百倍に増えた。
それと平行して、社会へ出ていく女性も増えていった。あたしは表向きにはそれらのことに関わることはできなかったが、裏では陛下にいろいろと助言した。変わらない姿を利用して市井に暮らした時期もあった。
大きく変わった訳ではない。だけどその基盤を作ろうとはしてきた。
そして息子の七代帝が亡くなる時に、ついに女性の政治参加も認められた。
それは息子の末の娘を八代の女帝として認めるための方便だったかもしれない。とはいえ結果には変わりはない。
だがもうその時にそれをあれ程望んでいたリュイはもうこの世にはいなかった。
彼女は子供を残さないまま、五十年も生きなかった。
夫君の嘆き様が今でも思い出せる。あたしの姿がどうあろうと、決して動じることのなかった親友。
その時ばかりは陛下も「泣くな」とは言わなかった。
それ以外あたしが彼の前で泣くことはなかった。
残酷なひとだ。彼は位を譲ってこの世を去った。あたしは言った。ご一緒させて下さい、と。あなた無しで生きていくのは辛い、と。
ところが彼は言った。お前は生きろ、と。
生きて、俺とお前が、変わるきっかけを作った帝国の終わりを見届けろ、と。
あたしはうなづいた。
泣かなかった。
気丈な方だ、と周囲は言った。だけど違う。そうじゃない。
あたしはただそれを守っていただけなのだ。女の泣くのを見るのは辛い、と言った彼の言葉を。
窓の外が次第に暗くなってくる。もう国境は越えてしまった。もう帰ることはない。
もう見るべきものは見た。
これから彼の話を誰かにすることもあるだろう。帝国の、改革を進めた六代の皇帝の話を。あたしはずっと少女の顔をして、昔の恋人の話をして、生きていくのだろう。ずっと。
そういう道を選んだことに、今でも悔いはない。
ただ、抱きしめる腕がここに居ないのが寂しいだけだ。
彼の話をするより、彼と話したい。抱きしめて、抱きしめられたい。声を聞きたい。耳に残っている。あの低い声が。
「…どうしましたお嬢さん…」
相席の老紳士がびっくりした顔になっている。ポケットをまさぐると、綺麗にプレスしたハンカチをあたしの前に差し出した。
え、とその様子を見て、あたしは窓の方を見る。夜の砂漠の何もない暗闇が鏡にした窓ガラスには、泣き顔の、十九歳の女が映っていた。
ありがとうございます、と言ってあたしはハンカチを受け取る。
止める人も、止める理由も、もう無い。
あたしはいつまでも泣き続けた。